猫の島(福岡県 相島)旅行記

 

Vol.1 みけねこ相島へ出発す!

 物事を良く知る人はこう語る。「筑紫の国(現:福岡県)には猫の島ふたつ有り。ひとつ目は『あいのしま』と云う。もうひとつは『あいのしま』と云う。

 最初の『あいのしま(藍島)』は、北九州市の海岸から北へ約5キロ、細長いネコのしっぽの形をしている。 ネコのシッポはたまらなくカワイイですからな。もう一つの『あいのしま(相島)』は、福岡市の北東に位置する新宮町の海岸から北西約8キロ、ハートの形をした島である。島の古老によれば、この形は、島民達のネコちゃんLOVEの心の現れ──とのことである。

 この土曜日・・・一泊二日の親睦会旅行のため、草深き田舎より福岡空港に降り立ったみけねこ。はるばる飛行機でやって来てたったの一泊だけだなんて、贅沢至極(つまり、カネがもったいない)だが、宮仕えの悲しさよ。月曜日はみんな仕事なのでいたしかたないのである。
 一日目については、特には語ることはない。なんといっても企業秘密のため、太宰府天満宮に行ったの、マリノアシティ福岡で買い物したの、夜は博多の華味鳥で水炊きをガツガツ喰っただの、書く訳いかないでしょ?

 そして、翌日の日曜日。
 6時30分。なんとかかんとか起床。昨晩、最後に食した屋台(おかむら)のラーメンは実に美味しかったが、早起きにはあまり宜しくなかったかなぁ。
 ホテルの朝食バイキングを食べ、そのままひとり出発す。孤独の旅路だ。しかし、上を向き歌いながら行こう。ロンリー アイ ミスタロンリ〜チャップリン♪

 本日(二日目にて最終日)は、夕方まで自由行動なのである。イエーイ!

 親睦会のメンバー達は、下関に行く組。吉野ヶ里に行く組。湯布院に行く組。今を時めく官兵衛探しに行く組・・・みな、思い思いの地に旅立つ。が──、唯一不人気なのが、我がネコ組。フン、まあいい。所詮、ネコはひとりで生きてくものさ。
 もちろん、目的地は、あいのしま。──って、どっちの島なのかって?フム。お教えいたそう。前者の『藍島』は、ネコ島として本場中の本場ではあるが、テレビ放送でいささか有名になり過ぎた。ネコの数よりも今や島を訪れるカメラマンの数の方が多く、ネコ一匹につき十人のカメラマンが群がる 始末。写真を撮るだけならまだしも、ネコを追って島民の花壇を踏み荒らすはは、ゴミはポイポイ捨てるは、糞尿をそこら中に垂れ流すは(って、さすがにこれはないか)というワケで、島民はカンカンだ。島民に袋だたきにされるのもイヤなので、よりマイナーで安心( たぶんまだ島民がそんなに怒っていないの意)の『相島』に決めたのである。

  相島(「あいのしま」又は「あいしま」)は、福岡県糟屋郡新宮町に属し、新宮海岸から北西に8kmの玄界灘に浮かぶ面積1,218,427u、島の周囲約8kmの島。
 ハート形をひっくり返したような形をし、人口 328人、世帯数150で、港のある南の海岸線に、人口の殆どが集中している。 島内には、県道599号線が島を一周しているが、バスやタクシーはない。

 鼻栗瀬(通称めがね岩)や柱状節理の絶壁など自然豊かな景勝の地である。
 中国大陸と九州を結ぶ航路の要衝にあたり、『万葉集』や『日本書紀』などには、「阿恵島」 「吾瓮島」「阿倍島」「阿閉島」「藍島」と様々な名で知られている。
 国指定史跡の「相島積石塚群」には254基の古墳が発見されており、元寇や、豊臣秀吉による朝鮮征伐に関する歴史的遺跡が存在する。江戸時代には、鎖国政策で唯一国交を結んでいた朝鮮からの朝鮮通信使の宿泊地となった。

 

Vol.2 道程遙かに

博多駅と西鉄バス(右)

福工大駅のコインロッカー

福工大駅北口。タクシーは右へ

 7時20分。西鉄バスにて『博多駅』へ。ほんの10分ほどの乗車だ。

 7時37分。JR鹿児島本線・門司港行の列車に飛び乗る。ウム、いいぞ。予定よりかなり早い。しかし、ここで失敗してしまった。パズドラしてたせいでアナウンスが聞き取れず、「次は〜♪よかばい大前駅〜ドスコイ大前」のように聞こえた・・・やっべ!時間もそろそろのハズだし 、なにより「大」が合ってる。間違いない絶対!と( それでもイヤな予感を抱きつつつ)飛び降りたところ、やっぱりひとつ前の九産大前駅だった。みけねこは、イヤな予感がしたら必ず決断する。悪い方向にね。
 幸い鹿児島本線は幹線なので、次の列車がすぐ来てくれたので助かった。

 8時2分。さっきのトラブルのせいで6分遅れで、『福工大前駅』着。これでも十分予定より早い。ええと、予定表どおりコインロッカーを探して(意外と探し回ってしまった)・・・ここ、大きな駅じゃないんで、 ロッカーが7コしかありませんな。しかも、300円の手頃なのがいっぱいで、500円のしか空いてないジャン。やむを得ない、どでっかいスペースに小っちゃいリュックを入れる。

 そうそう。旅行前に作っておいた予定表、置いときますね。旅の途中、歩きスマホしながら確認するため作ったものだ。
 只今、予定表時刻より絶賛先行中。どうせ、すぐ追いつきますがね。

場 所 時 間

交 通

適         用


 
ホテル

 
渡辺通二丁目 
   ↓(10分)
 
博多駅

 
博多駅
   ↓(15分)
 
福工大前駅

 
福工大前駅
   ↓(10分)
 
相島渡船場

 新宮発
   ↓(17分)
 
相島(あいのしま)

 

07:40

07:44

08:00

08:26

08:41

08:50

09:00

09:20

09:50

 


徒歩

バス



電車



タクシー







 


 孤独に耐え出発!(ホテルより道路を横断してバス停へ)

 
[5]住吉・博多駅行(100円)



 JR鹿児島本線4駅 
快速・小倉行(3番線)(280円)

 ※
荷物は駅ロッカーへ入れて行こう!

 ※乗場は北口と思われ。



 町営渡船「しんぐう」(460円)



 


 観光案内(新宮町HP)、パンフレット(PDF)

 <
渡船場から右方面へ>
  漁港〜相島小学校〜剣神社〜相島積石塚群(めがね岩の写真を!)
  ※距離約2キロ(徒歩25分)。10:40頃に引き返すつもりで。
   ネコが点在するため、歩くのに時間がかかるのだ。
  [食事]相島地域産物展示販売所
  ※サザエご飯かな?
 <
渡船場から左方面へ>
  朝鮮通信使館跡〜若宮神社〜龍王石
  ※出航まで散策。ここら一帯は特にネコが多い。

 

 
相島(あいのしま)
   ↓(17分)
 新宮着

 
相島渡船場
    ↓(11分)
 
福工大前駅

 
福工大前駅
   ↓(18分)
 
博多駅

 
博多駅
   ↓(5分)
 
福岡空港
 

13:50

14:10

14:26

14:37

15:00

15:18

15:28

15:33

 






バス



電車



地下鉄


 町営渡船「しんぐう」(460円)



 マリンクス[70]相らんど線第2ルート(100円)
 
 ※
荷物取り忘れずに!

 JR鹿児島本線(6駅) 鳥栖行(7番線 、280円)



 地下鉄空港線(2駅) 福岡空港行(260円)

 ※おみやげはメンタイコ。

 さて、右上端の駅北口の写真の真ん中にパス停 (右写真が大きくしたもの)があって、そこに男がひとり立っているのが見えるであろう。その男こそ──知らないバス待ちの人だ。このバス停は、新宮町の町営コミュニティバス「マリンクス 」のものだが、そのバスはなぜか途中で30分間ものんびり停車しちゃう(時刻表は、上の日程表のリンクを適当に踏んでください)ため、渡船場への到着時刻は9:17となる。そして、相島への船の出航時刻が9:20。その間3分しかない。たぶんうまく間に合うようになっているのだろうが、多少の節約のためにいらぬ危険を犯すわけにはいかぬ。

 8時15分。バス停右方のタクシー乗り場で、幸い一台だけ待っていたタクシーに乗り込み、「ええと、あいのしまのとせんじょうまでおねがいします」嗚呼それにつけても1,170円もかかってしまった。マリンクスだったら100円 だったのにね。

 

Vol.3 町営渡船「しんぐう」発進!

 8時25分。『相島渡船場』着。真新しいよーな感じの待合所の自動発券機で切符(460円)を買い、トイレに行ったり、缶コーヒーを飲んだりして、ゆったり時間をつぶす。こいうものもいいね。港にネコが歩いていたので、カメラを向けたら、神速で消えてしまった。空には、白い薄い雲が漂っていて 、天気は、薄晴れってやつかな。とにかく、写真を撮ろうとすると空が白っぽくなっちゃうたぐいの天気だ。お客はつり客らしい2組と、ネコ目当てっぽい(カメラ持っていたからね)中年夫婦1組 がやはりのんびりしている。待合所の向こうの有料駐車場(料金300円)に車を置いて来たらしい・・・おっ。船が入ってきたようだ。

相島渡船場。左が待合所で、中央が乗船場。右が魚港の施設のようだ。

待合所の内部

発券機

 9:20。三々五々と乗客達は船に町営渡船「しんぐう」に乗り込む。切符は、相島で下船する時に渡せばいいらしい。古くはあるがなかなか味わいのある船だ。そういうニオイがツーンとする。みけねこChina隊の冒険で乗ったあの恐ろしい三峡乃星号のクサさには負けるが。お客は全部で十ニ・三人かな。船内の客室は二階構造になっており、階段で一階に降りると座敷 の部屋。二階は前部と後部の客室に分かれており、船尾と横が外部デッキとなっている。今回はガラガラだが、そんなにキャパがあるようには思えず、定員164人が乗り切れるとはとても思えない。

船が来たど〜行こう

降りたらすぐ乗るで!

二階前部客室(33人定員)

1階客室(定員70人?ムリでしょ)

外部デッキ

さらば〜新宮よ〜旅立つ船は

 町営渡船「しんぐう」:幅5.50メートル、深さ2.20メートル、総排水量74トン、運行速力15.00ノット(時速約27.8キロメートル)、定員164人、乗組員5人、夏季1日6便、冬季5便の往復運航

あの島じゃな〜い?

中学校(分校)と小学校らしい

新鋭戦艦「しんぐう」(ズーム)

港に近づいてきた

あれは第一村猫?(ズーム)

相島渡船場に到着

 遙かに横たわる影がだんだんと近づき、そして陸地となった。あれは何だ?鳥だ!飛行機だ!いや、相島だ!(特に書くことないもんで)

 玄界灘の荒波で揺れる時があると聞いていたが、本日波静かなり。もちっと長時間の乗船だったら船酔いするかもしれないが、17分ばかりならチョロイものである。

 相島港には、一隻の巨大な艦影が停泊していた。むっ!いったいなんだろう?みけねこは目を凝らした。どう見ても、ため池のごとき玄界灘を航行するような船ではない──どちらかといえば、宇宙空間へ 発進してもなんら不思議はない風格ではないか。
 そう、これぞ新宮町が 人類の未来をかけ、総力を結集して建造した新鋭戦艦・・・じゃなかった、町営渡船「しんぐう」(新)である。新宮とイスカンダル・・・じゃなかった相島を結ぶべく、10月1日に就航す。くそっ! こんなポンポン汽船より、あっちのスペースクルーザーの方がいい。どうせなら親睦旅行を1ヶ月遅らして欲しかったなぁ。


相島だ。右方海上にめがね岩も小さく見える。

 9時40分。『相島』到着。さてさて!猫どもはどこだ?

 

Vol.4 相島到着!ネコとの遭遇

 いささか デカイが、ここでパンフレットを広げよう。これがないことには島歩きは始まらない。実際、みけねこは、このパンフとスマホのGPSを見ながら歩いた。GPSは不安解消のためですがね。

 渡船場から右(東)方向へ歩き出す。上のパンフレットでも反時計回りを進めてますしね。

 まずは、船から見た例の第一村猫 のクロを確保だ。引き続き第二村猫のシロを確保。第三はまたクロネコだ。ネコ確保は非常に容易である。連中、しゃがむとすぐ寄ってくるし、お礼の煮干しも準備してきた。 しかし、ネコ達のお行儀が極めて宜しい。大部分のネコは、煮干しをやってもすぐには食べず、頭をこすりつけてご挨拶してから食べるのだ。ウーム。ネコの協同組合の約款かなにかでそう決めたのだろうか。道路左側の平成25年4月建設の『相島渡船待合所』(ここで、パンフレットを手に入れた)、島唯一の食堂の『相島地域産物展示販売所』(又の名を食堂丸山)、島唯一のコンビニにてスーパーの『相島販売所』が立ち並ぶ通りを過ぎる。食堂と売店は漁協でやっているようだ

 相島漁業協同組合の建物前で自動販売機の缶コーヒーを買って一休みしていると、第四・第五村猫が続けてやって来た。ただ今、9時52分。島に到着して十分ほど、歩いた距離にして まだ300メートルほどだ。

右方向へ歩き出す 第一村猫。よしよし 第二村猫。ニホシ食うかい? 第三村猫(そっくりだが第一とは別) 相島渡船待合所
相島地域産物展示販売所 (食堂) 相島販売所(コンビニ) さらに東へ向かう 第四村猫 第五村猫

 

Vol.5 東北東に進路を取れ!

 島を一周する県道599号線を東へ向かってさらに進もう。東を向いて〜歩こうよ お金が〜こぼれないように〜忘れ出す〜

 左手に二軒の旅館が現れる。『丸巳屋』と『美潮荘』だ。釣り客が主に泊まるのだろう。こういう味わいのある旅館に宿泊してゆっくり島を探索できたら、さぞや楽しいことだろうと思う。美潮荘は知らないが、丸巳屋の名物料理はふりかけ料理だろうなとは容易に想像がつく。美潮荘の前には、自家用車が駐車していた。おそらく、宿泊客が港につくと、この車で宿まで送迎してくれるのではないだろうか。

丸巳屋

美潮荘

美潮荘前に駐車の自家用車 相島の小学生が描いたのだろうか 道端で大きなアゲハをよく見かけた

 道路が二手に分かれた。右が『相島小学校』で行き止まり、左が島を一周する本道の県道599号線だ。小学校の校舎は、さほど大きくはないものの、我が母校の小学校より断然立派だ。全校児童数11人 、当然複式学級だ。本日は日曜日なので、子供達の姿はない。ゲーセンも不良のたまり場もない、この自然豊かで清らかな環境なら、子供達は真っ直ぐにスクスク育つに違いない。もちろん 、うっかり本土に渡らない限りはだが。
 なお、手前の左手高台に中学校(新宮町立新宮中学相島分校)があるが、こちらはパス。残念ながら時間は有限であり、全てを見尽くすのは無理だ。ネットの写真で見たら、中学の男の子は皆 、テリー・サバラスかあばれるクンみたいないがぐり頭だった。島の子供達の生活がいかに健全であるかが伺える。

相島小学校

左の本道へ(右が小学校)

道は登り逆となった 振り返ると港があんなに遠くに 坂道はさらに続く

 そういえば、猫の姿がすっかりなくなってしまった。やはり人が住むところ=エサがもらえるところにしかいないのだろうか。代わりにトンビが空をくるくると飛び回っている。ここまでの距離1.3キロ。歩き始めて30分だ。

 

Vol.6 日蒙供養塔

突き当たりの案内板には

右か左か・・・左か右か

この先には!

 上り坂が続く。さらに進むと、「剣神社 日蒙供養塔」と書いてある案内板があった。これは予定表に入っている。行かずばなるまい。海側へ右折。そこは草の道だった。突き当たりはT字路となっていて、またも案内板があった。この案内板、六角形で右を指しているのやら左を指しているのやら、ファジー過ぎてさっぱり分からない。左の道らしき方向は、背の高い草が生い茂って、アナコンダが飛び出しそうだ。よしっ右だな!右に違いない。
 その先の坂を上ると・・・海だっ。おおっ。マブチィー!灰になっちゃいそう。みけねこは両目をかぎ爪で覆った。踊り狂う光の粒が煌めく海。海。小さな浜には・・・。

 ゴミ。・・ゴミ・・漂流ゴミだ。みけねこはゴミのひとつに近づいてみる。ハングル文字!

 近年、頭のいい韓国人は、政官学の頭脳を結集し、ごみ処分問題を根本的に解決する方法を発見したと聞く。それは、海流を利用して最終処分場(つまり日本)にゴミを送りつけるという方法である。輸送費も処分費用はかからない上、韓国国民の美意識(つまり反日意識)にも合致した一石二鳥の秘策なのである。

左(東)方向 右(西)方向(港方面だ) 韓国からのプレゼント 左へ進む ゴミと丸石の道が続く

 この丸石の浜(百合越海岸)を歩くのは、ハイヒールなどではとても無理だろう。人の姿も猫の姿なく、波の音が聞こえるばかり。いるとすれば蒙古の怨霊くらいだろうか。慎重に進んだ先に、草に覆われた『日蒙供養塔』があった。
 下の写真のとおり、ほぼ草に埋没してしまっていた。

 太宰府まで攻め込まれた「文永の役」の経験を苦い反省として、執権・北条時宗は、博多湾や新宮の海岸線に防塁を築き、防備の武士を全国から呼び集めた。「文永の役」から7年後の1281年6月、元寇二度目の来襲「弘安の役」勃発である。

 朝鮮半島を発した蒙古・高麗連合軍は、博多に上陸せんとするが、防備の武士達に撃退され、なんとか上陸した志賀島も武士の猛反攻により追い落とされ、海上を二か月もの間漂った挙げ句、暴風雨に襲われたのである。攻め込んできた四千の軍船と十五万の兵士は、当時、世界最大規模であったが、故国の土を踏めたのは、二百の軍船と三万の兵士だけだったと云う。

 この戦いによる膨大な負担は、鎌倉幕府にとって滅亡の遠因となり、海軍戦力の殆どを失ったモンゴル帝国にとっては、幕府の統率がゆるんだことによる倭寇の侵略に脅かされることになった。

 ここ、百合越海岸にも、蒙古の屍が折り重なって漂着したという。それを敵味方の区別亡く葬って、蒙古塚を建てたとという記録があるが、その場所がどこなのか分からなくなってしまった。この『蒙古供養塔』は、1967年に神宮寺の先代の住職の尽力により、この地に建立したものである。

 

Vol.7 朝鮮通信使関連墓地と夏だけ温泉

 それにしても剣神社がなかった・・・やはり剣神社は、アナコンダの道の方だったらしい。『日蒙供養塔』の手前に島の内側へ折れる道があり、『相島積石塚群 ←すぐそこ』の 案内板がある。来た道にへ戻るにはゴロゴロとした丸石の浜を通らねばならない。よし。案内板の道を進もう。ムー。砂利の間から草が伸び、いかにもハブがでそうな──いや。逆に出ない方が不思議 なくらいである。

 ハブに警戒しつつ足を進めると、「ひぃっ!」突然、お墓みたいなのが。──ビクビクし過ぎだよね。きっと、よくある「ナントカ土地改良事業完成記念碑 ○○土木事務所長」とか書いてある石碑だよ。ウンウン。後ろに回ってみると案内板があって、『朝鮮通信使関連墓地』。やっぱ、まんまじゃん!

「相島積石塚群 すぐそこ」とある ハブ出ないだろうな・・・ ギャーッ!ヒィー。怖〜い 後ろから。案内板が二つ 左は「朝鮮通信使関連墓地」だが

 後で調べたところ、『朝鮮通信使関連墓地』とは、1719年7月24日、第九回朝鮮通信使の受け入れ準備のため、船に乗っていた黒田藩士と水夫61名が、台風で溺死したことを悼んでの供養塔という。

 ん?右上写真の案内板(左写真はアップ)だが、右のやつ・・・『夏だけ温泉』って。
 気になる気になる気になる!すっごく気になる。秘湯中の秘湯。キングオブ秘湯に違いない。しかし、矢印の方向をいくら見ても、草が茂るばかりで道などない。海岸の方(右写真)に目を凝らしても、それらしきものは何もない。 道無き道どころか、無き道無きだ。とにかく草しかない!!

 もし道らしき痕跡でもあったなら、後先考えず突き進み、タオルがなくても、入っただろうに。沖のデバガメ漁船の女船長(かどうかは知りませんが)に見られたって、かまやしない。見られるのは一時の恥。入れぬのは一生の損 と昔から諺に云うではないか。しかし、それにしてもこのジャングルでは・・・そもそもあるんだか、ないんだか。

 ややあって、良識が勝利をおさめ、みけねこは、肩を落とすと先へ進んだ。秘湯を渡る〜風を〜見たのは〜♪

 帰宅後ぐぐったら、あった。一人いらっしゃった。こちらの猛者の方がいかれた。
 http://touki.sakura.ne.jp/index.cgi?http://m-touki.sblo.jp/article/47462358.html
 想像以上に過酷な道だが、ここまでたどり着いたなら。ヘドロだろうが、コケが生えていようが、カニにアソコ(もちろん足の指とかですぞ。念のため)を挟まれようが、入っただろう。 なんといっても秘湯中の秘湯、世界一の秘湯なのだから。

 

Vol.8 相島積石塚群

 石畳の海岸を先に進むと、『相島積石塚群』がそこにあった。賽の河原っぽい景色だが、思っていたより全然不気味じゃない。それよりなぜかすがすがしく感じる場所だった。

 大小のごつごつした岩だらけの海岸が500mほど続く相島東部の長井浜にある『相島積石塚群』は、海辺の石を積み上げて造られたもので、500m続く海岸に254基の古墳が確認されている。
 古くから存在は知られていたものの、蒙古兵士の墓であろうと思われていたが、平成4年になって本格的な調査が入り、この遺跡が4世紀から7世紀の古墳時代前中期から後期に、石を積み上げて作られた古墳であることが判明し、平成3年8月7日に国指定史跡に指定された。

 古墳は大小あちらこちらにあって、先を赤く塗った杭で位置を示している。目の前に現れた120号墳は、長さ20mの前方後円墳で、石塚群の中でも最も大きい。かなり力のある族長の墓なのだろうか。残念ながら盗掘され、須恵器(お皿じゃよ)が少し残っていただけで、ここにどのような歴史が 営まれていたのかは分からない。玄室の多くは、朝鮮半島の方角に開いており、渡来系の海人だったのかもしれない。

 この古墳がつくられた5世紀前半は、ツングース系民族の高句麗が百済を攻め、救援を求められた大和朝廷が朝鮮に出兵し、高句麗軍と激しく戦っていた頃だ。

先に行ってみよう 相島大塚120号墳 裏に回ってみた ここからめがね岩が見える・・・ ここに幸じゃなかった、道あり

 120号墳の脇に内陸への道があった。おそらく、県道599号線に戻れる道だろうと、明るい緑の絨毯に足を踏み入れた。
 只今の時刻10時26分。歩き始めて46分。渡船場から1.7キロほどだ。

 

Vol.9 剣神社〜めがね岩

 奇妙にトロピカルなイメージの小道を抜けると、やはり県道599号線だった。『剣神社』はすこし港側へ戻るはず・・・ん?この階段はなんぞや?案内板もないが、場所的にア・ヤ・シ・イ。
 階段を登ると、左手に鳥居。やはりここだ。賽銭箱がなかったので、拍手のみにて、武運長久を祈る。なお、右手の道は例のアナコンダの道に繋がると思われる。

現世への明るい道

この先が本道だ

案内板がった

謎の階段

階段を登ると

ようやく剣神社発見

剣神社:明治時代に多数の刀剣が発掘されたことから、この神社が建てられたもの。平安時代、筑前大島に配流された安倍宗任が隠したとの言い伝えがある。

 さて。只今の時刻10時31分。予定表では、東方面はこれにて終了し、来た道を戻って次は西方面を探索する予定である。昔から「予定は確定」と云うではないか...よし。やっぱり行く。島を一周するぞ!「オー」(独り言)

 10時36分。渡船場から54分。距離にして2キロ。あのパンフレットに書かれた島一番の超絶絶景ビューポイントで、鼻栗瀬(めがね岩)と鼻面半島は県文化指定財(名勝)に指定されている。この写真、空と海がもう少し青ければなァ。相島東端に位置する鼻面半島の沖300mに浮かぶ鼻栗瀬を、通称「めがね岩」といい、高さ20mの玄武岩が波に侵食されて穴があいたものだ。
 それにしても、穴がひとつしかないのに、なぜめがねなのだろう。片眼鏡(モノクル)ってやつかな?西洋の貴族や怪盗がよくしてるアレだが、ノペーとした平面顔の日本人には、眼窩まわりの筋肉を相当使わなければ、かけ続けるのは難しいと聞く。


みけねこは元気よく歩き出した


めがね岩をアップ

 朝鮮通信使の書記であった申維翰が『海游録』の中で、相島の風景を次のように述べている。

 『傾斜した道を歩いて西山に登る。古松長杉が険しい谷間に落々とし、幽草ほう鬆が道の両側に生えている。路は狭くて険しい。登り終わると、遥かにけぶる渚を百里の外に望む。山々は皓々として、あたかも白い練り絹の帯の如く、またあたかも玉連環の如く、藍島(相島)を抱き抱えるようにして、尺寸の隙間もない。浦を隔て漁帆が遠近に明滅し、みな鏡面をすべるように往来しているのが歴々として見分けられる。雲は溶々として波浪に堕ちんばかり。松風も発して、雲水に相答える。見る者はたちまちにして恍然として我を忘れる。すなわち余が航海して以来、初て見る神仙境である』

 いや〜昔の人の文章って、ロマンチックで素晴らしいですね。普通にこんなの書いちゃうんですもの。現代の人なら、「松や草の生えている険しい道を西山へ登った。海を見れば漁船があり、空には雲が浮かんでいる。この旅一番の絶景だ」で終わりでしょ。

 

Vol.10 太閤潮井の石〜岩宮神社

 島一週コースとなると、サクサク歩かねばなるまい。次の船の時間になると、島唯一の食堂がいっぱいになる可能性があるので、その前に一周したい。しかし、普段の運動不足なのかなア。いや、暑いんだ...シャツがびっしょり。こんなの久しぶりだ。島の売店で飲み物を買ってくれば良かったと後悔しきりである。
 10:46。案内板を発見。では、左の階段を登ってみよう。アチ〜。

道路は続くよ〜どこまでも

本道が有待亭跡・遠見番所跡

右階段が潮井の石・穴観音

右の階段を登った先には?

太閤潮井石

岩宮神社

 まずは、左側。蜘蛛の巣をかきわけて、『太閤潮井の石』の石碑へ。わざわざ太閤の文字が何者かに削られて、潮井石だけ刻まれている(下囲みにアップ写真を)。
 ここでまた失敗が。石碑の裏手に行くと、下の写真の実際の石があったらしいが、そうと知っていれば、蜘蛛の巣をかき分けて押し入ったのに。岩宮神社も、蜘蛛の巣がすごかったので、離れたところから、写真を撮ったのみである。

★太閤潮井の石
太閤潮井の石の写真 豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592、1597年)のため、諸国の軍船が海路名護屋城に向かう途中、相島に立ち寄って、海岸の石を一人一石持ち寄って、千手観音像に航海安全と戦勝の祈願をしたのを、太閤潮井の石と呼ぶ。
 お清めの砂をお潮井というので、これから名がついたのではないかと思われる。

 石の量は、10トンダンプで200台分ということだ。一体、何人祈願に来たんだ?

★岩宮神社
 太閤の軍兵が、潮井の石を置いた後に祈願した神社ではないかという以外に、詳細は分からない。鳥居は立派だが、奥は神社というより祠に近い感じだった。

 なお、おそらく、岩宮神社のところから、『穴観音』への道があるのではないかと思われたが、絶壁の中の洞窟の観音様を引き潮のタイミングで参拝できたそうだが、現時点、福岡県西方沖地震のせいで、落石の危険があり、立ち入り禁止だそうである。しかし、やはり世には英雄と呼ぶべき勇気の人がいましたので、ご紹介しておきましょう。 ・・・。怖いですね〜。ホラーですね〜。では、サヨナラサヨナラ。
 http://ameblo.jp/taoizm/entry-11207711622.html

 只今、10:47。所用時間1時間7分。距離にして2.6キロだ。現在の場所は島の北端近く。これから南西へ進むことになる。

 

Vol.11 有待亭の謎

 周回コースをもう半分近く歩いただろうか。向こうから二組の団体が歩いてくる。ベビーカーを押した郎党5名、そして老夫婦だ。たぶん、同じ渡船で来て、左回りで歩いているのだろう。ここまで来たとは早っ!しかし赤ちゃんを連れてよくぞ歩いてきたもんだ。みけねこなんて、大汗かいてヒーヒー唸りながら這い進んでいるのに。もしかして、ベビーカーの中は赤ちゃんじゃなくて、ネコを二・三匹乗せているだけかも知れん。──それにしても、相島小学校以来、初めて人の姿を見た。

「史跡 有待亭跡」とある。 有待家のお屋敷かな? 脇から見てみた。ウ〜ン なかなかいいお車ですな 下り坂が続く。

 右側に「史跡 有待亭跡」と刻まれた石碑が建っている。おそらく有待という大身の武士か貴族の豪壮なお屋敷の跡なのであろう。その証拠にほれ。草の中に建物らしき姿が見えるではないか。みけねこは、目を凝らした。・・・こちら側からだと、光の加減かなにかで、掘っ建て小屋に見える。脇から回ってみた。うーん。トタン材のボロ小屋にしか見えん。屋根が飛ばされないように上に石が置いてあれば完璧だ。しかも、そのお屋敷の中からは、「コケッコケ」とニワトリの鳴き声までが聞こえてくるではないか。さっぱり分からん。

 これまた後日調べたところによると、有待亭とは、朝鮮通信使の客館のこと。元々、山頂付近あたりにあったのではないかとされ、それらしいこの地に碑まで建てたのだが、近年の研究で、客館は港近くにあったと判明したらしい。そしてこの場所は、江戸時代に吉村恕助なる人物の隠居所があった場所 であるとか。
 この碑は大間違いであり、あのボロ小屋も、紛れもない鶏小屋だったのだ。

 只今の時刻10時54分。歩き始めて1時間14分。渡船場からの距離2.8キロ。

 

Vol.12 遠見番所跡

 しばらく単調な道歩きが続く。クマのような青年が向こうからパンフレットのマップを片手に歩いてきた。 この周回コースで出会ったのは、その青年が最後だ。
 下り坂の途中、左手に『遠見番所跡 灯台』の案内板を見つける。よし、登ってみよう。

 ぐはっ。また蜘蛛の巣だ。四つん這いにならないと回避出来ない位置だ。みけねこは、雄々しくも蜘蛛の巣を引き千切っては投げ引き千切っては・・・おかしい。さっきすれ違った連中。 ここに来なかったのか?そういえば、島一周の「マスターハードコース」以外に、相島中学校付近から北に抜けて、東半分を歩く「ばぶばぶベビーコース」があるらしい。先ほどの青年はともかく、その前の二組はアヤシイ。

「遠見番所跡 灯台」の案内板 コンクリ坂を登るった先には 草に覆われた番所跡の石積 隣には相島灯台 さあ。さらに坂を下って行こう。

 『遠見番所跡』には、つた草に覆われた基礎の石積のみが残り、その隣には相島灯台(結構小さい)が建っていた。遠見番所だけに、島一番標高の高い場所なので、ここから、波荒れ狂う玄界灘やスカイツリーなどを遠望しようと考えていたのだが、周りは雑木林だらけで視界はゼロだった。

 徳川幕府が島原の乱の後に鎖国令を出したことから、福岡藩二代藩主黒田忠之が置いた藩内5か所に置いた遠見番所の1つ。玄海灘を望む西端の高山(標高77メートル)設置され、定番2人・足軽3人が毎日交代で監視していた。まったくいい仕事じゃありませんか。

 沖に異国船を発見したら、福岡藩に早船を仕立てて注進するよう、港に来たら丁寧に応対し、長崎への案内を要求されたら応じるよう、もし逃げたら追跡・捕獲し、長崎奉行に引き渡すように定められていた。5人でどうやって外国船を捕獲するか考えると、やはりいい仕事じゃないかも。

 隣の「筑前相ノ島灯台」は、1976年設置された。

 さあ、また道を下っていこう。只今11時9分。歩き始めて1時間29分。渡船場からの距離3.7キロ、そろそろ先が見えてきたようだ。

 

Vol.13 龍王石〜朝鮮通信使客館跡

 海だ。海が見える。港が近い...この島一周コースも終わりが近づいてきたことを感じる。

 左側に見えるは、『龍王石』。周囲7.5mもある自然石で、八大龍王の御神体として、島の漁民から海より深〜い信仰を集めているのだ。このあたりで、龍王の怒りも畏れず、釣り糸を垂らしている太公望達が何人もいた。バチ当たりめが。
 道の右側に階段がある。「とりあえず登る」のモットーを実践したところ、階段の先には、生花が飾られた『護国の英霊碑』が立っていた。この小さな島からさえも第二次世界大戦で出征し戻ってこなかった人々がいたのだ。
 パンフレットによれば、このあたりに『金毘羅神社』があるはずなのだが、いつの間にか通り過ぎてしまったのだろうか。残念ながらさっぱり分からなかった。金毘羅神社の先には、謎のヤブサブロウ様がいると云う。・・・後から思えば、この時、「まあいいか」とすぐあきらめてしまったのは、結構(あんよが)疲れていたからだと思う。普段ならシツコク探したはずなのだ。

海だ! 太公望(スマホ中) 龍王石 この階段は何じゃ? 護国の英霊碑

 このすぐ先からいよいよ、港近くの漁村(というべきか)エリアへ入る。下の写真の案内板『朝鮮通信使客館跡』が見えるだろうか。こここそが、新の客館跡 で、下の古地図を証拠とされたい・・・しかし、普通に民家が建ち並び、さっぱりそうは見えない。先ほどの有待亭のあたりの方がよっぽどそれっぽい雰囲気だ。看板のすぐ脇には、島で唯一のお寺『神宮寺』(浄土宗西派)だ。立ち入り自由の本堂内には島の歴史資料が掲示されているらしい。(知らなかったので、入らなかった)
 その先に、小さな公園(滑り台1台、草に埋もれたシーソー2台)があったが、草茫々で、使われているとは思えない。こんなの写真を撮る人もあまりいないと思われたので、撮っておいた。

真ん中やや右に案内板 少し近づいた。真ん中左端だ。 もっと近づいたゾ 案内板右側に神宮寺 児童公園かな。子供いないね

 左図は、1748年の来訪時の古地図。渡船場を降りた先に掲示されている。客館の場所が不明となっていたところ、岩国徴古館蔵(山口県岩国市)の絵図に記されているのが分かり、そのとおりに発掘してみたところ、柱跡が発見されたという。(でも、この大きさはデフォルメしすぎなので、実際は右図だ)
 朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりごとに、朝鮮李朝王の国書を携えた通信使が日本を訪れた。通信使の来日は12回に及び、11回までは江戸への旅路の途中、相島に滞在した。通信使の一行は随員を含め500人にも達し、幕府より接待を命じられた黒田藩は、藩の威信をかけてもてなしたが、その負担は28億円にも達したという。

 

Vol.14 ネコとの再会と若宮神社

 「ニーニー」鳴き声がした。左手の塀際にまだ若いネコが二匹。「やあ。久しぶりだね。ネコちゃんたち」みけねこはニンマリ笑うと煮干しの袋に手をいれた・・・・「ニーニーニーニーニー」「ニーニーニーニーニー」「ニーニーニーニーニー」

 ギャーッ!塀の後ろからゾロゾロ並んで来おった。一二三・・・七匹だ。この島のネコグループの一つなのだろう。若いクロネコとキジネコだけで構成されたグループだ。そう言えば、相島にはネコのグループが大きく四つあると聞く。例えば仔猫だけのグループとか。こいつらのグループは、若いブラック系ネコしか仲間に入れない掟なのだろう。きっと。ここで煮干しの半分以上を奪われる。

 その先には、「みち潮苑」という宿。こっこれは相当味わい深い。レベル高いぞ。皆さん、相島に来たら是非ここへ泊まってください。みけねこ一押しなのだ。

ネコだ。久しぶり 第六〜第十二村猫だ! 簡易宿所 みち潮苑ですって。 若宮神社 本殿

 で、その先は、『若宮神社』。岩宮神社よりも大きくて綺麗だが、特筆することない...とその時は思って、写真を二枚撮って、後にしたのだが。

 むか〜し昔。あるところに天照大神という神様がいました。天照大神は孫の邇邇芸命に地上を治めるよう命じました(天孫降臨)。邇邇芸命は、筑紫の国の高千穂というところに家を建て、笠沙の岬で出会った、木花開耶姫という美しい地元女性と結婚しました。
 やがて、木花開耶姫が妊娠したことを邇邇芸命に報告すると、妊娠時期が少し早いような気がした邇邇芸命は不貞の子ではないかと疑いました。神とはそういうものです。
 悲しんだ木花佐久夜比売は、夫に「あなたの子なら必ず生き残るはずです」と邇邇芸命に言い、産屋に入ると火をつけました。人間であれば「待ってくれ。俺が悪かった」と止めるところですが、神はそういうことはしません。
 炎の中で生まれたのが、兄の海彦と弟の山彦です。

 ある日、兄弟は自分達の仕事道具である釣り竿と弓矢を取替えて、海彦は山へ狩りに、山彦は海へ釣りに行くことにしました。結局慣れぬことは出来ないもので、どちらも獲物は捕れなかったのですが、弟の山彦は兄の釣り針を無くしてしまったのです。山彦は、自分の十拳剣を削ってまず五百本、次に千本の釣り針を作って兄に差し出しましたが、兄は「もとの釣り針を返せ」と怒鳴るばかり。
 必ず探し出しますと兄に約束したものの、困り果てた山彦が海辺に佇んでいると、通りかかった塩椎神という老神が「乗って海の国に向かい、綿津見の神の宮の門の傍らにある桂の木に登るって待ちなさい」と、小舟を貸してくれました。
 老神の言いつけどおり、山彦が桂の木の上に座っていると、井戸に水を汲みに来た侍女が水瓶に映った裸男に驚き、海神の娘の豊玉姫を呼んできました。豊玉姫は、山彦の甘いマスクに一目惚れ (右絵)。二人は結婚し、三年の年月が過ぎました。しかし、気になるのはやはり兄との約束。山彦が時々ため息をついている理由を知った義父の綿津見の神は、世界中の魚を呼び寄せて、釣り針の行方を一匹一匹に聞いてみることにしました。すると、一匹の鯛が「お口が痛い」というので、口の中を改めたところ、あの釣り針が出てきたのです。綿津見の神は釣り針を山彦に渡すと、こうアドバイスしました。「『おぼ針、すす針、貧針、うる針』と唱えながら、後ろ手にお兄さんに渡しなさい。海彦殿が高いところに田を作ったら低いところに。低いところに作ったら高いところに田を作りなさい。もし、海彦殿が攻めてきたら塩盈玉でおぼれさせ、謝ったら塩乾玉で助けてあげなさい」

 ふるさとに戻った山彦は、アドバイスどおりの方法で釣り針を兄に返すと、次第に兄は貧しく、山彦は裕福になりました。ムカついた海彦は軍勢を仕立てて弟を攻めてきましたが、山彦は塩盈玉と塩乾玉を使って、兄を反省させました。
 心を入れ替えた海彦は「これからはあなたの警護をいたしましょう」と謝し、その子孫が今も朝廷を警備する隼人族となったのです。

 さて、時を戻して、豊玉姫ですが、身ごもって出産するために山彦の古里を訪ねて来ました。「出産するところを絶対見ないでくださいね」と豊玉姫。そういわれた山彦は、ますます見たくなって、産屋の中をこっそり覗いてしまいました。見えたのは、でっかいフカがのたうち回っている姿。山彦はキャーと叫ぶや、逃げ出してしまいました。
 豊玉姫は恥ずかしさのあまり、海の国に帰ってしまいましたが、残った赤子の養育係として、妹の玉依姫を使わしました。その赤子は、天津日高日子波限建鵜葺草萱不合命と名付けられ、成人すると四人の子を成しました。その末っ子の名前は若御毛沼命、又は、神倭伊波礼比古といい、この方こそ初代天皇である神武天皇なのです。

 と、物語をばっさり端折ったつもりが、意外に長くなってしまったのだが、『若宮神社』の祭神は、「豊玉姫と玉依姫」である。ここまで書けば、賢い読者の皆様は全てお分かりのことと思う。海神の宮とは、この若宮神社で、海の国とは相島のこと。山彦が上った桂の木とは、神社のご神木である「ユズカヅラ」の木。ユズカズラの葉は、島の妊婦達の安産のお守りとされていると云う。
 相島中学校の近くに高妻神社がある。祭神は「彦火火出見尊」。別名、山彦なのである。(さあ!皆さん。深ィィのボタンをバシバシ押していいですよ)

 

Vol.15 相島地域物産物展示販売所

 戻った。ついに戻ってきた!只今11時39分。出発してから1時間59分。公式距離5.4キロだが、あちこち寄りながらなので、6キロ以上は確実に歩いたはずだ。


左が『前波止』で、右が『先波止』

 『先波止』と『前波止』は、通信使来島に伴う船を係留するため、1682年に延べ3,850人の人夫を使って黒田藩が造ったもの。『先波止』は朝鮮通信使用で現在は使われていないが歴史遺産となっている。『前波止は黒田藩の船用で、現在は渡船場として、町営渡船「しん ぐう」が利用している。

 さて、メシだ。みけねこは、シメシメと手を擦った。入るは、島唯一の食堂の『相島地域産物展示販売所』。注文する料理は既に決まっている。「刺身定食(1,260円)お願いしま〜す」食べログで調べといたんだ。ちょっと高いけど、名物を食べないわけにはいかない。待っている間に、 11時50分の船が着いたようだ。窓の外を老若男女がゾロゾロと通っていく。朝の便と違って、さすがにこの時間の船は乗客が多いようだ。──来た来た。サザエご飯おいしかったね。でも、おかずの量が多すぎて残してしまった。これなら 十分安いと思う。
 この食堂の名前から分かるように、2階は展示室になっている。島の観光や歴史の掲示物でもじっくり見学しよう・・・と思ったら、ガラーンとして島で釣れるサカナの写真と網の展示が少しあるだけだった。いくらなんでも非道すぎだ。ガッカリ。
 展示室から見下ろすと、いつの間にやら食事の順番待ちの人々がゾロ〜リ座っていた。いや〜。なんとか混む前に間に合って良かった。

もう結構客が入っていた 窓の外。あれ?人いっぱい 刺身定食1,260円 期待外れの2階展示室 うわっ。いっぱい待ってら

 只今の時刻12時5分。出航時刻は13時50分なので、1時間45分もある。もしかして、もう少しゆっくり島巡りを楽しんでも良かったような気がしてきた。でも、サザエご飯はうまかった よね。

 

Vol.16 さらば相島そしてネコ達

 おなかもふくれたことで、グルグルと港近辺の街歩きをしてみよう。ネコでもなでながらね。猫の写真を撮ってみたが、少しかぶっているような気がする。でも、模様と大きさが似たやつは見分けがつかないんだよなァ。

第十三村猫。頭がなでやすい 第十四村猫(第一か第三と被ってるかも 街中にある恵比寿神社 道が狭くて両側から家が迫る 絶対車は入れませんな
これは・・・??? 第十五村猫(と十三村猫) 第十六村猫(白ソックス) 第十七村猫と第十八村猫 第十九村猫(みけねこだ!)
第二十村猫 第二十一村猫 第二十二村猫 第二十三村猫 (真ん中やや右のクロ) 第二十四村猫(シロネコ)
第二十五村猫(黒い小さいやつね) 栄屋旅館(島の宿は三軒だ) 第二十六村猫(首輪の黒いやつ) さあ、そろそろ 乗船の時間だ

 全二十六の村猫に出会った。茶トラとシロは、みけねこがなんとなく気に入ったらしく、ペタペタ後を付いてきた。
 13時35分。そろそろ乗船の時間だ。最後に第二十六村猫(唯一、首輪をしてたやつ)の頭をナデナデして、渡船場へ向かった。ネコ達は、みけねことの別れがつらいらしく、「ウォ〜ン」とは鳴かず、しっぽをペロペロしていた。

 13時50分。町営渡船「しんぐう」出航。船は、防波堤を避けて大きく東へ迂回し、足にエンジンの振動が伝わると、少しスピードが上がった。波動エンジンを始動したのだろう。みけねこは、ずっとデッキに立って島を見ていた。猫たちが見えなくなり、釣り人が見えなくなり、渡船場のゲートが見えなくなって、島は靄の中、影となっていった。


 そして、かわりに本土の影が次第に大きくなって来た。14時。新宮港到着。真っ先に船を下りたみけねこは、待合所脇のバス停で待っていた町営バス・マリンクスへ乗り込んだ。 あとは出雲じゃないけどお国に帰るばかり。あの寂れた何もない草深き田舎の地へ...

さらば相島 次第に遠くなっていく 新宮港だ! 町営渡船着岸。ただいま〜 マリンクスに乗り込んで

 さて。これ以上続けることは蛇足だろう。筆の置き方はいつも難しいのものだ。
 親睦旅行のついでで、限られた時間しかない条件でもなければ、決して来ることがなかっただろう相島。そりゃあ、遙か九州まで空路で来れば、普通、別府とか湯布院とかテンボスとかに行っちゃいますよね。事前調査の不足がたたり、訪問できなかった夏だけ温泉も穴観音もヤブサブロウ様も高妻神社も新鋭戦艦「しんぐう」乗艦も──リターンズは終生ないだろう。

 その楽しみは、この文を読んでくださった方にお譲りすることとし、この一年ぶりに作った旅行記を閉じることとする。

 


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