隊名 「みけねこパラオ隊」
隊員 三名(クンクン含む)
期間 2013年8月24日(土)〜28日(日)の5日間
日程 当初日程表は、こちらをクリック!

パラオインフォメーション

 国名 パラオ共和国(Beluu er a Belau)
 首都 マルキョク
 人口・面積 人口:20,609人(2011年),面積:458km2
 政体・宗教 大統領制(1994年10月1日独立),キリスト教
 公用語 パラオ語,英語(アンガウル州では左記+日本語)
 通貨 アメリカドル
 気候 熱帯,年平均気温27度・湿度82%
 時差 日本との時差なし

みけねこパラオ隊 パラオ旅行記

 序章 みけねこパラオ隊結成!

 四年ぶりに旅行記でも書いてみようかな。今年は結構ヒマですし。

 今年のGW頃、早々と夏の旅行の話になった。アベノミクスで給料も下がったことだし、今年の夏はつつましく日帰徒歩旅行(近所をサンポとか)がいいなと思っていたのだが、(恐れていたとおり)やはり彼女は納得してくれなかった。

 「去年も一昨年もグアムだったし、今年は違うとこにしましょ〜よ
 「ウーン
 「ヨーロツバはどう?
 「ウーン。遠いからナア。そんなに何日も休めないし
 「モルドブは?
 「ウーン。海上ホテルで、ウンコする時穴にしゃがんで、海にぽっトンすんだって。ウォシュレットはあるにゃあるが、それは深くしゃがんでお尻を海水に浸けるって仕組。時々サメが来て囓られる人も多いんだってサ
 「ニューカレドギアは?」 
 「ウーン。あそこは良くない。噂じゃ天国から一番遠い島だとか。きっと地獄みたいなとこなんだろうねェ

 ───と、まあキリがないので。結論としては、パラオとなった。みけねこが、パソコンで気持ち悪い毒クラゲがウヨウヨしている写真を見せたところ、なぜか「カワイイ!」ということになってしまったのである。クンクンにクラゲの写真を見せたら「キモチワルーイ」と言っていたが、行先の決定権限はクンクンにはあまりない。
 ところで、パラオってどこ?マカオなら知ってるけど。(右上図はパラオのイメージ。実際行ってみたら、冗談のつもりが意外とこれに近かった...かも)

 日程は瞬時に8月下旬で決した!上旬はボクが仕事を休めず。中旬は彼女が休めず。期間は4泊5日がちょうどいい!This is サイコーにちょうどいい(巻き舌で)。
 さて。パラオへ行くにはデルタ航空とJALチャーター便直行便が出ている。ユナイテッド航空はグアム経由となるし、大韓航空は反日である上に事故ばかり起こすので問題外。

◆デルタ

行:18:25発23:30着 帰:04:20夜09:15着

◆JAL

行:09:25発14;00着 帰:15:45発20:15着

 デルタだと実質2日損してしまう。デルタに乗る阿呆はこの世にゃおりまへんな〜と皆様お思いでしょうが、やはり落とし穴はあった。デルタは土曜発〜水曜帰だが、JALは月曜発〜土曜帰なのだ。しがないサラリーマンがウィークデー丸ごと休めるわけないよー。

 かくして、「旅する心で旅行を創る」日本交通公社トラベランドへ。ここには、チャモロ人そっくりの店員さんがいて、ミクロネシア旅行にはぴったりなのだ。店内は、アベちゃんのお陰で(我が家以外は)景気がいいせいか、申込客がひっきりなしにやってきて、札束をブンブン振り回している。活気があっていいやねェ。

 「・・・それと、テルホはパラオ最高峰ゴージャスホテル!PPR(CCRではない)でお願いしまっす・・・」近所のサンポなら兎も角,わざわざパラオまで行ってケチるわけにはいかぬ。ちなみに飛行機もビジネスクラスにしようかと思ったが、ビジネスクラス症候群になるとやばいので、安心のエコノミーにした。 その他イロイロ一通り申し込んだ結果、料金は現時点で支払済又は確定済で以下のとおり。じゃーん!ひゃ。

費 用

金額

内 訳

旅行代金

565,600円

JTB、(大人2人、子供1人)、国内空港使用料(6,000円)含む

朝食券(3日分)

16,500円

JTB、(大人2,200円×2人×3日、子供1人×3日は大人半額だが現地別途)

オプション

26日

クロースエンカウンター

30,000円

JTB、(大人110$×2、子供80$)現地払

ドルフィンシンフォニー

27日

カヤック&ジェリーフィッシュレイクツアー

25,908円

Alan1.net(大人100$×2人、子供55$)

海外旅行保険

4,920円

三井住友(3人、ファミリープラン、本人2千万)※リピーター5%割引

成田駐車料金

4,800円

サンパーキング(5日)※サマーキャンペーン千円割引適用

647,128円

 

 その他、JTBで10万円以上の外貨両替の場合、千円プレゼントというので、両替もお願いした。それにしても一年前は1$80円台だった。アベちゃんには頭を向けて眠れんなァ。まったく。(これからは足を向けて寝るとしよう)。

ドル両替(1,000$)

103,960円

JTB、レート:1$=103.96円(5/12現在)

 後は、出発の日までイメージトレーニングをするばかり。パラオ・・パラオね。ン、ンーッ!湧いてきた湧いてきたぞ。

 晴れた空〜そよぐ風。夢も通うよあのコロールの。あゝあこがれのパラオ空路♪

 パラオ人の起源は、紀元前にインドネシア方面から渡来してきたモンゴロイド(色が濃いが黒人種ではない。収斂進化である)が祖先だとされるが、パラオ人は文字を持たなかったため、1543年のスペイン人のルイ・ロペス・デ・ビリャロボス来航以前の歴史は不明である。
 19世紀後半の西欧列強による植民地争奪時代の1885年。パラオはローマ教皇の裁定で勝手にスペインの植民地にされる。西欧人が持ち込んだ天然痘と、激しい収奪によってパラオの人口は以前の1/10になってしまったという。
 1899年、米西戦争に敗れ零落したスペインは、パラオを含むミクロネシア諸島(米西戦争でアメリカに取られたグアムを除く)をドイツに450万ドルで売却し、パラオはドイツ植民地となる。ドイツは、スペインほど残虐ではなかったが、ココナッツの栽培や鉱石採掘など殖産興業に熱心だったものの、やはり住民の教育やインフラ整備には無関心だった。

 第一次世界大戦で、連合国側だった日本が海軍を派遣してパラオのドイツ守備隊を制圧し、パリ講和会議でパラオは日本の委任統治領となった。
 日本の統治は、スペインやドイツの統治下ではほとんどなかった学校や病院建設、道路敷設など各種インフラ整備を行い、中心地のコロールは近代的な町並みに変貌していった。(右写真:当時のコロール3丁目)
 日本人は伝統的に教育についても熱心で、パラオの子供達のために公学校を建設し、日本の教科書で日本語で学ばせた(近代的視点では問題アリだが、パラオ語には文字がなかったので、仕方ない面もある)。また、戦後日本の教科書に採用され(皆さんも読んだ人がいるかもしれない)、「山月記」など格調高い名文で知られる中島敦が南洋庁の教科書編纂掛として赴任していたのは有名である。
 植民地政策の違いについては、西欧の場合、植民地を本国を豊かにするための奴隷や資源を考えるが、日本は、日本そのものと日本人を増やそうという理念の違いであろうと思われる。それに、西欧列強クラブの入会が認められたばかりの日本は、「紳士」たるべし、原住民の「範」たるべしという意気込みがその頃あったのかも知れない。

 第一章(1) 出発!2013年8月24日(土)

 11:30。出発・・・パラオ隊のメンバーは、もうおなじみ。ボク・彼女・クンクンだ。

国道X号線走行中

 国道X号線を一路成田へ。昨夜のうちにクンクンが退屈して泣き叫ばないよう、3DSにルイージマンション2をダウンロードしておいた。 これぞ深謀遠慮である。本日の天気は快晴(でも時々曇り)なり。パラオもお天気だといいのだが、実は8月のパラオは雨期。 パラオの人たちがウキウキする季節らしい。ここしばらく現地の天気予報をチェックしていたが、雨が降ったりスコールが降ったり土砂降りだったりの毎日らしい。ヤバくね?

サンパーキングへ

このバスに乗って空港へ

 前を走行するタンクローリーの鏡面に我が(本当は彼女の)愛車が写る。みけねこの愛車は軽なので、高速道路を走らせると空中分解してしまう怖れが多分にあるため 、遠くにいく時はお留守番なのだ。道中、昼食として、にんたまラーメン(乱丸ではない)を食す。これが日本最後の食事となる。

 14:00。成田ICを降り、民間駐車場のサンパーキングへ。ここ、昔から利用しているんですけど、途中途中の民間駐車場 の看板を見ると1日400円まで下がってるんですね〜。去年は1日500円だった。なお、サンパーキングの場合、料金1日4,800円也。結構高いよね。しかし、あまり激安 のを利用すると、帰国したらタイヤが4つなくなっていたとか、ヴェルファイアを預けたら、ワゴンRに縮んでしまっていたとか、いろいろあるそーなので。

 14::20。予定より相当早く成田空港第一ターミナル北ウィングへ。お盆のピークは過ぎたとはいえ、ガラガーラである。 その大昔、新婚旅行で初めて成田空港へ来た時は、人人人で息も吸えない有様だったのだったがなぁ。まずはJTBカウンターでもらうモンをもらって、自動発券機へ。 これ、反応が鈍いしイマイチ直感的に操作出来ない。たぶんお年寄りには無理だと思うなァ。アカチャンでも無理じゃ。きっと。

成田ってこんなにガラガラなの?

難関の自動発券機

デルタ手荷物預け

18:25 遅延無し

 クンクンが「ピーピーなっちゃう」と怖れていた探知機を無事くぐり、免税店でタバコを2カートン買う。これが楽しみでしてのう。市場末端価格4,100円が、なんと2,500円ですぞ。しかも2カートン買うとパスポートバックもれなくプレゼントじゃ。裏地がルイビトンの模様にチョッピリ似てるビニールの代物だ。

追記:帰国してから知ったこと。今年8月15日からタバコの持ち込み免税が一人1カートンから一箱になってた。ガーン!

十日も経ってないジャン。どうりで、入国審査の時に、係の人が「タバコハ?」「イエース!ツーカートン。ワンカートンアンドワンカートンね。グヒヒ」「オー!マイガー!○×▲・・・」(その時は、「タバコとは最高ですな。お目が高い。是非パラオの美しい海でドシドシ吸っていただきたい」とか言ってるんだろうな〜と思ったが、少し違っていたのかも。今回見逃してくれたようですが。

 さて、搭乗は18時頃。只今の時間は15時過ぎ。三時間近くどう時間をつぶせば良いのか...普通の人は溜息をつきながら、出発ゲート近くの堅くてトゲだらけの腐った椅子に腰を下ろして、寿命を縮めるものである。
 しかし、ボクたちが申し込んだプランは、吉幾三の「俺らパラオさ行ぐだ」の歌を彷彿とさせるもの。夕食は付いていねェ昼食も付いていねェ朝食さえ付いていねェ(付いてるのは機内食ダケ)の三重苦のうえに値段だけは結構高いというプランだったが、ただ一つ、付いているものがあった。ラウンジ・・・そう。高貴な御大尽様のみが入ることが出来る航空会社のラウンジの利用券である。雲上の方々が利用されると漏れ聞くラウンジとは、どんなところだろう?天界を覗き見ること。これは、この旅行における我々の大きな楽しみのひとつでもあった。

 我々は、5F。神々が集うデルタ航空ラウンジへ。

ここが天国への入口だ

フカフカの椅子に

ワインに軽食食べ放題

最高だね

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 マリヤンというのは、私の良く知っている一人の島民女の名前である。
 マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、凡て発音が鼻にかかるので、マリヤンと聞えるのだ。

 マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した訳ではなかったが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ。
 マリヤンの容貌が、島民の眼から見て美しいかどうか、これも私は知らない。醜いことだけはあるまいと思う。少しも日本がかった所が無く、また西洋がかった所も無い(南洋でちょっと顔立が整っていると思われるのは大抵どちらかの血が混っているものだ)純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な顔だが、私はそれを大変立派だと思う。人種としての制限は仕方が無いが、その制限の中で考えれば、実にのびのびと屈託の無い豊かな顔だと思う。
 しかし、マリヤン自身は、自分のカナカ的な容貌を多少恥ずかしいと考えているようである。というのは、後に述べるように、彼女は極めてインテリであって、頭脳の内容はほとんどカナカではなくなっているからだ。
 それにもう一つ、マリヤンの住んでいるコロール(南洋群島の文化の中心地だ)の町では、島民らの間にあっても、文明的な美の標準が巾をきかせているからである。実際、このコロールという街――其処に私は一番永く滞在していた訳だが――には、熱帯でありながら温帯の価値標準が巾をきかせている所から生ずる一種の混乱があるように思われた。最初この町に来た時はそれほどに感じなかったのだが、その後一旦此処を去って、日本人が一人も住まない島々を経巡って来たあとで再び訪れた時に、この事が極めてハッキリと感じられたのである。此処では、熱帯的のものも温帯的のものも共に美しく見えない。というより、全然、美というものが――熱帯美も温帯美も共に――存在しないのだ。
 熱帯的な美を有つはずのものも此処では温帯文明的な去勢を受けて萎びているし、温帯的な美を有つべきはずのものも熱帯的風土自然(殊にその陽光の強さ)の下に、不均合な弱々しさを呈するに過ぎない。この街にあるものは、ただ、如何にも植民地の場末と云った感じの・頽廃した・それでいて、妙に虚勢を張った所の目立つ・貧しさばかりである。

 とにかく、マリヤンはこうした環境にいるために、自分の顔のカナカ的な豊かさを余り欣んでいないように見えた。豊かといえば、しかし、容貌よりもむしろ、彼女の体格の方が一層豊かに違いない。身長は五尺四寸を下るまいし、体重は少し痩せた時に二十貫といっていた位である。全く、羨ましい位見事な身体であった。

[其の一]  引用元:青空文庫

 第一章(2) フライト

出入国カード(黄色が出国分)

 18:25。ボクたちは、快適なラウンジから一転。デルタの狭いエコノミー席へ身体を縮めていた。

搭乗

B757-200 ETOPS

チキンとポテトサラダ

 ラウンジで見かけた(パラオに行くと言ってた)ファミリーは、悠々と遙か前方のビジネスクラスのシートに身を沈めている。一方、ボクたちは翼のちょうど真後ろ。小さな窓からは翼見放題のお得な位置である。いつだってこの定位置なんだよなぁ。金というものは、あるところにはあるが、ないところにはない。これぞこの世の絶対原理である。
 本便は、ボーイング社B757-200 ETOPS。シートが横3×2(エコノミックアニマル席)のちと小ぶりな飛行機。パラオは、ハワイとかグアムとかと比べると、まだまだマイナーなのだろう。

 19:30。お楽しみ機内食の時間だ。普通、(エコノミーの)機内食というものは旨くないものだが、デルタの機内食は旨からず不味からず。ちょうど良い味付けである(これは褒めている)。しかし、ボク達はラウンジでタダメシを喰い過ぎていたので、半分くらい残してしまった。忘れないうちに、配られた出入国カードを書く。毎度ながら面倒くさいですな。税関申告書は、普通は一家族一枚だと思っていたが、パラオの場合、出入国カードの裏面が税関申告書なので、全員分書かなければならない。

 さて、機長からの機内放送によると、今日は飛行機の調子が不思議といいので、予定より30分早く着くという。やったね!

 ──飛行機は、徐々に高度を下げる。見よ!あの美しい紺碧の海原に浮かぶセブンティーアイランドを・・・と言いたいところだが、何せ現在時刻23時。窓から見えるのは、翼の先のナビゲーションライトの赤い光だけだ。 飛行機はゆっくりと闇の地上へ降りていった。

窓より。第一パラオ人発見だ

入国審査場にて

荷物を受け取って

現地係員のお迎え

 パラオ国際空港は小さな空港で、コロール空港と呼ばれたり、アイライ空港と呼ばれたりするが、正式名称は「バベルダオブ空港」と云うなかなか悪魔っぽい名前なのだ。でも考えてみれば日本だって、新東京国際空港(正式名称) が、愚かな物知らずの人々が成田空港と呼ぶのといっしょ。どうせなら名前が4つもあるパラオの方が上である。

 通路を通ってまずは入国審査場へ進む。飛行機のシッポ近くの座席だったボクたちは、入国審査に並ぶ長蛇の列の後尾となってしまったが、それにしても、列がさっぱり進みませんな。 パラオの審査官の太極拳の如きゆる〜りとした手捌き(もし、「What's the purpose of your visit?」と聞かれたら、「See light.(観光です)と答えるつもりだったに、残念、何ひとつ聞かれなかった)は 日本の審査と比べものにならない。出来れば、可能な限り、審査場へ向かって列に並べればベストだろう。
  審査が終わると、機内預け荷物受取だが、着いた時には、既にターンテーブルから下ろされていた。まあ、飛行機がチッチャイですし。最後に税関。ここまで、入国の所要時間は約30分ほどであった。

 ゲートを出ると、深夜にもかかわらず、様々なツアー会社の係員がパタパタ旗を振って出迎えてくれていた。我等がJTBは現地のペラウツアーに下請けしているようだ。ベラウの係員(日本人女性)に「この先右の出口を出て、そこのペンチで待っててください」と案内される。

 ベンチには、同じ飛行機で先に外に出られた日本人がいっぱいで、座れるところはなかった。パスの乗客が全員集合するまで延々と待つ。やはり、入国審査の遅さ(ボクタチの後にも結構いましたからね)がたたっているよう。それにしても、灰皿が数メートルおきに置いてあったのは有り難し。パラオでは、2012年3月からレストラン・ホテルなどにおける屋内禁煙法が施行されたなど、法的には厳しさを増している。しかし、元々パラオではタバコに寛容とされ、吸える場所に関しては、東京より全然困らない。
 ここで、噛みタバコをたしなむ第一村民じゃなかったパラオ人発見。このタバコはパラオ人の子供から老人まで、男女を問わず愛されている嗜好品であり、ビンロウジをいう実をスライスし、石灰をまぶして、キンタマ樹という品のある名前の葉に包んで、くちゃくちゃ噛むのである。すると、ビンロウジの汁と石灰と唾液が化学反応を起こし、覚醒作用を起こすらしい。クッチャクッチャクッチャクッチャを噛んで、味がなくなったら、その場で「ペペペのペッ」と吐き出すわけだが、吐き出した液の色は 美しきルビーのような、毒々しき鮮血のような。噛み慣れない人だと最初はクラクラするらしいが、なんでも非常にウマくて(たぶん)中毒性があるのだろう。帰国するまでには、クチャラーのパラオの人の写真を撮ろうと思っていたのだが、結局、機会がなかった...。

様々なツアーの係員が待っていた

空港建物の外でバスを待つ

第一灰皿発見!

このバスでホテルへ

 23:50。恙なく全員集まり、やっとこガス爆発じゃなかった、バス出発。それにつけても深夜着は疲れますな。

 パラオ共和国は、カロリン諸島の一部、ミクロネシアの最西端に位置し、日本のほぼ真南3000km。フィリピンからは東、グアム・サイパンからは南西に位置する大小586島(内、有人が9島のみ)からなる群島国家である。北部には最も大きく首都や空港のあるバベルダオブ島と観光の中心であるコロール島があり、さらにロックアイランドと呼ばれる海抜の低い諸島群、南にはペリリュー島とアンガウル島がある。気候は、熱帯性気候であり、平均気温28度。人口は、約2万人(7割がパラオ人で、次にフィリピン人が多い)であり、その大部分が2006年まで首都のあったコロール島周辺に住んでいる。
 体制は、大統領を元首とする共和制で、独立国家であるものの、通貨は米ドル。国防はアメリカの保護下にある。

 第二章(1) パラオ到着! 2013年8月25日(日)

 23:50。ようやくバス出発。皆、さすがに疲れ顔である。車内ではベラウのおねーさんのオリエンテーションが始まり、帰りのチケットを奪われてしまった。たぶんなくしちゃう人が多いからなのかな。

 空港の敷地を出ると、窓の外の道路は街灯も少なく、暗闇である。首都や空港もあるパラオ最大の島バベルダオブ島は、未だ開発が進んでいない。
 コロール島へと繋ぐ有名なKBブリッジ(有名なのは下のエピソードのため)をじっくり見るつもりが、辺りが暗いもんで、見逃してしまった。クソッ!帰りには絶対見るぞと決意す。

KBブリッジ(Japan−Palau friendship bridge)

 5年の歳月をかけ、2002年1月11日開通した橋。コロール島と空港のあるバベルダオブ島を繋ぐ交通の要であり、日本の無償援助で鹿島建設によって掛けられた。
 
 実は、この前身となる橋があった。当時、鹿島建設と入札で争った韓国人企業SOCIOが、なんと鹿島の半額!で落札。パラオの人々は「お値段以上SOCIO♪」と大喜びした。
 1977年に完成した旧KBブリッジは、開通するやさっそく中央部分がグワ〜ンとたわみ始め、車が通行する度に不吉な振動を発するようになった。賢いパラオの人々はいつ橋が崩れて海に落ちても、泳いで逃げられるよう、車の窓を開けて徐行運転していたという。
 何度か補強工事を行ったものの、1996年。ついに轟音と共に旧KBブリッジは真っ二つに崩れ落ち、死傷者も出る大惨事となった。韓国名物、揺れてもいないのに自然崩壊の一例である。

 交通のみならず、電気・ガスなどのライフラインは両島で分断されてしまい、パラオは国家非常事態宣言を出した。建設したSOCIOはとっくの昔に倒産し、パラオ政府に支援を求められた韓国政府は知らんぷり。そこで、とある国がこう言ったそうじゃ。「お隣さんが助けんのかと思っとったんじゃが・・・やらねえならしょうがねぇ。オラが一肌脱ぐべが」

 途中、コロール市街にあるパレイシアホテルで、何人か降りる。ここもパラオ五指に入る有名ホテルだ。残りの二十名ほどの乗客は全員PPRのよう。やっぱり人気ですね。
 それから、コロール島とアラカベサン島を結ぶニホンバシ(通るときに両側が特に真っ黒なので、こりゃ海だ→ならばここは橋の上だ!というのが判った。日本統治時代の昭和11年完成)を通って──
 (残念ながら、窓の外は暗すぎて写真は無理)

このバスで出発だ

ツルツル運転手

バスの窓からパレイシアホテルを

PPRロビー

 00:20。パラオ パシフィック リゾート到着。ボクたちは真っ先にバスを降りた。あれ?いつの間にか、パラオ滞在二日目になっちまった!
 

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 私が初めてマリヤンを見たのは、土俗学者H氏の部屋においてであった。

 夜、狭い独身官舎の一室で、畳の代りにうすべりを敷いた上に坐ってH氏と話をしていると、窓の外で急にピピーと口笛の音が聞え、窓を細目にあけた隙間から(H氏は南洋に十余年住んでいる中に、すっかり暑さを感じなくなってしまい、朝晩は寒くて窓をしめずにはいられないのである。)若い女の声が「はいってもいい?」と聞いた。オヤ、この土俗学者先生、なかなか油断がならないな、と驚いている中に、扉をあけてはいって来たのが、内地人ではなく、堂々たる体躯の島民女だったので、もう一度私は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦訳しているのだが、その女は――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけその手伝いをしに来るのだという。その晩も、私を側に置いて二人はすぐに勉強を始めた。
 パラオには文字というものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用いて筆記するのである。マリヤンは先ず筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其処に書かれたパラオ語の間違を直す。それから、訳しつつあるH氏の側にいて、H氏の時々の質問に答えるのである。「ほう、英語が出来るのか」と私が感心すると、「そりゃ、得意なもんだよ。内地の女学校にいたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑いながら言った。マリヤンはちょっとてれたように厚い脣を綻ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。

 あとでH氏に聞くと、東京の何処とかの女学校に二、三年(卒業はしなかったらしいが)いたことがあるのだそうだ。「そうでなくても、英語だけはおやじに教わっていたから、出来るんですよ」とH氏は附加えた。「おやじといっても、養父ですがね。そら、あの、ウィリアム・ギボンがあれの養父になっているのですよ。」ギボンといわれても、私にはあの浩瀚なローマ衰亡史の著者しか思い当らないのだが、よく聞くと、パラオでは相当に名の聞えたインテリ混血児(英人と土民との)で、独領時代に民俗学者クレエマア教授が調査に来ていた間も、ずっと通訳として使われていた男だという。尤も、独逸語ができた訳ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足していたのだそうだが、そういう男の養女であって見れば、英語が出来るのも当然である。

 私の変屈な性質のせいか、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出来ず、私の友人といっていいのはH氏の外に一人もいなかった。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
 マリヤンはH氏のことをおじさんと呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知っているからだ。マリヤンは時々おじさんの所へうちからパラオ料理を作って来ては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと称するタピオカ芋のちまきや、ティティンムルという甘い菓子などを始めて覚えたのも、マリヤンのお蔭であった。

[其の二]  引用元:青空文庫

 第二章(2) パラオ パシフィック リゾート

ウェルカムドリンクいただき

321号室はどこじゃ?

右側のどあじゃ

部屋には皿の花とクッキーが

ジュゴンが描かれたキー。見えるかな?

部屋を出て右折して

左折したところに灰皿

喫煙所から部屋(右端)を振り返る

 ロビー入口でウェルカムドリンク(オレンジジュース)を受け取り、立ち飲みしつつのチェックイン。手慣れたもので、あっという間だった。高級ジュースを飲み慣れていないボクは、自分の分をゴクゴク飲み干し、クンクンの分(眠くて食欲がないのだ)まで頂いてしまった。いいジュースは、何杯飲んでもウマイものである。

 ジュゴンのカギを片手に、ボクたちの部屋はどこだろうと探す。PPRは、”コテージ風”建物の集合体のホテルであり、広大な敷地内に、ガーデンビュー(部屋のお値段は激安。庭の木やニワトリが見える)、オーシャンビュー(標準。窓の端から首を伸ばすと海が少しだけ見える)、オーシャンフロント(高い。海に面しており、ビーチもビキニもモロ見え)のそれぞれ二階建の建物が点在しており、探すのが実にもって大変・・・と思って、係の人を捕まえて聞いてみたら、フロントから一番近くのオーシャンフロントの建物の二階だった。なんかすごくラッキー。あっそうそう、各部屋の値段の違いは多少あるものの、部屋の内装自体は大差ない。

 ボクたちの部屋のテーマは鍵の模様と同じくジュゴン。ドアを開けると・・・嗚呼すばらしきかな。ベッドの上には土方久功氏ゆかりのストーリーボードがある。ストーリーボードとは、日本統治時代に、民俗学者で彫刻家の土方氏が伝承を彫刻にする「板彫り」をパラオ人に教えたもので、当時の公学校の図工に採用された結果、今ではパラオを代表する工芸品となった。

 スーツケースをポーターさんが部屋まで運んでくれたので、2$のチップを払う。ヒ〜ン。200円も取られるくらいなら、自分達でスーツケースの二個くらい(いや、10個だって)パスからセッセと運ぶところだが、今日のボクたちは、PPRに宿泊するセフレじゃなかった、セレブなので、致し方ないのだ。

 お風呂は──明日、綺麗なプールで汚れて腐りきった身体を洗うことにした。脳ミソはつかうためにあるのである。パジャマに着替えて、歯を磨いて就寝・・・の前に最後の一服 の場所を探さなくちゃ。灰皿はドアから出て数十歩のところにあった。PPRは2012年10月から全室禁煙となったが、灰皿は建物と建物を繋ぐ渡り廊下のそこかしこに点在するため、まったく困らない。グアムでもタバコに厳しいシンガポールでも以前そう思ったものだが、日本は喫煙所が少なすぎるため、こっそりプカプカする連中が多いんじゃないかなぁ。東京で喫煙出来るところを探すのは一苦労だが、パラオでなら言葉に不自由でも簡単に見つかる。

 寝る前に・・・忘れてた!WiFi!ウイヒー!パズドラやって魔法石もらっとかなくちゃ!
 さて。パラオでのインターネット環境は貧弱の一言である。その理由は、おそらくだが、パラオの人々は背中を丸めてネトゲ廃人になってレアガチャを引くより、大自然の中で走り跳び泳ぎ、魚を手づかみで捕って生のまま食らう方が(たぶん)好きなためではないかと思われる。
 しかし、ここはパラオでも一指に入るPPR。WiFiが<無料で>使えるのだ。そのくらい事前調査済じゃ。グフフ...設定のために必要なパスワードが書かれた紙をもらいにフロントへ。「アイアムアボーイ。ウイヒープリーズ?」「オージッスイズアペン」で、頂けた。実に簡単ですな。これで滞在期間中も毎日 毎日、レアガチャ引き放題ってもんである。


 枕ゼニを3$(3人分)準備して、ようやく2時就寝。荷物を広げたりしてたので、やはり遅くなっちゃった。最後に部屋のベランダからの景色をパシャリ(上写真)。明日・・・いや、今日は晴れるといいなぁ!

※パラオには、悪しきチップの習慣はないが、ホテルなどでは、チップを渡したくて仕方ない悪しき欧米人の行為が悪例となて、枕ゼニ一人当たり1$、ポーターに荷物1個当たり1$程度のチップが常識となっている。なお、チップではないが、レストラン等での食事では料金の10%のサービスチャージ料金(これも意味がよく分かりませんが)が最初から含まれていることが多い。

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 或る時H氏と二人で道を通り掛かりにちょっとマリヤンの家に寄ったことがある。うちは他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を並べた床が大部分で、一部だけ板の間になっている。遠慮無しに上って行くと、その板の間に小さなテーブルがあって、本が載っていた。取上げて見ると、一冊は厨川白村の『英詩選釈』で、もう一つは岩波文庫の『ロティの結婚』であった。天井に吊るされた棚には椰子バスケットが沢山並び、室内に張られた紐には簡単着の類が乱雑に掛けられ(島民は衣類をしまわないで、ありったけだらしなく干物のように引掛けておく)竹の床の下にどもの鳴声が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあろう、一人の女がしどけなく寝ころんでいて、私どもがはいって行くと、うさん臭そうな目を此方に向けたが、またそのまま向うへ寝返りを打ってしまった。そういう雰囲気の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、実際、何だかへんな気がした。少々いたましい気がしたといってもいい位である。尤も、それは、その書物に対して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに対していたいたしく感じたのか、其処まではハッキリ判らないのだが。
 その『ロティの結婚』については、マリヤンは不満の意を洩らしていた。現実の南洋は決してこんなものではないという不満である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでしょう」という。
 部屋の隅を見ると、蜜柑箱のようなものの中に、まだ色々な書物や雑誌の類が詰め込んであるようだった。その一番上に載っていた一冊は、たしか(彼女がかつて学んだ東京の)女学校の古い校友会雑誌らしく思われた。

 コロールの街には岩波文庫を扱っている店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、たまたま私が山本有三氏の名を口にしたところ、それはどういう人ですと一斉に尋ねられた。私は別に万人が文学書を読まねばならぬと思っている次第ではないが、とにかく、この町はこれほどに書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の読書家かも知れない。

[其の三]  引用元:青空文庫

 第二章(3) 初めてのパラオの朝は雲時々小雨

PPR(クリックでデカいの開きます)

 6時49分起床。真っ先にベランダへ。ウーム。やな予感大当たりで空が湿っぽい。それどころか、時々ポチポチと空から水滴が...8月のパラオは雨期なので当然といえば当然なのだけども。

 (→右にパラオパシフィックリゾートの構内図を載せておこう。ボクたちの部屋321号室は、右マップ(3)の右端2階。いいトコでしょ?)

 二階渡り廊下の喫煙所でタバコをカプカプしていると、「ナーゴナーゴ」とネコの鳴き声が聞こえた。むむっ?階段を降りると、ミケネコが大喜びでみけねこにスリスリして「ナーゴナーゴナーゴ!」昔から何故かネコに好かれるんだよなぁ。 是非見せなくちゃと急いでクンクンを起こしてくる。
 「カワイー」今風の丸顔の猫じゃなくて、昔風の日本猫顔ですかね。クンクンの過剰な愛情表現にネコは困ったらしく、少しづつネコは(いつもの巡回コースへ?)移動していってしまった。
 時折、「ココケッコー!」と鋭い鳴き声が聞こえる。見ると、ニワトリ達が歩き回っていた。はて、いったい何羽いるんだろう?PPRは、ニワトリにとっても住みやすいところらしい(「ここ結構」とニワトリ自身も言っていることだし)。

パラオ・パシフィック・リゾート:1984年開業。東急不動産の関連会社パシフィック・アイランズ・デベロップメント・コーポレーションが運営するパラオ唯一の五つ星ホテル。東急グループの総裁・五島氏が音頭を取って、アラカベサン島西部のマングローブのジャングルを切り開き、雨が降ると泥が流れ出す海岸には、堤防を築いて潮の流れを変え、珊瑚が住めるプライベートビーチを造成した。敷地内の樹木は極力残し、椰子の木より高い建物は建てずに、二階建てのコテージ形式(14棟・2階建・客室数全160室)のホテルにした。現地ではPPRと呼ばれる。

 

小雨パラつくパラオ

ミケネコだ!

クンクンといやがるミケネコ

第一ニワトリ

 8時。プール脇にあるレストラン「ココナッツテラス」へ。大人用@2,200円×2はJTBに払込済なので、クンクンの分だけ部屋付けで追加(何故か子供料金11.5$+サービス料10%は現地払でとのことなので)。「グッモーニン!」「ナーゴナーゴ・・(やべっ。間違えてネコ語で言っちゃった)ええと、スリーツーワン(部屋番号) チャイルド ワンスモア プラス プリーズ」「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」ホテルの人は、ボクたちの黄色い顔を見ると、まず中国人か韓国人かなと英語で話しかけ、ポカーンと口を開けると、日本語で言い直してくる。

※パラオは、日本統治時代に日本語教育がされていたせいで、今でも多くの年配の方が綺麗な日本語を話せるほか、日常生活でも日本語が残っているものがある。
 イタイ。ゾウリ。ベンジョ。ヒコウキ。イソガシイ・・・などなど。パラオ人の名前も、シゲオ。フミコ。クニオなどのほか、スズキサン。などサンまで入った名前も。
 面白いところであは、ツカレナオース(ビールを飲む)。チチバンド(ブラジャー)。アチュイネ(暑いね)。アイコデショ(じゃんけんぽん。一回目でも)

 モーニングはビッフェ形式。絢爛かつ豪華。荘厳かつ華麗。珍味かつ佳肴──とは言い過ぎだが、日本人好みの味で十二分に満足。クンクンとボクはベーコンが一番ウマイと思った。彼女はまんべんなく食べていたから判らない。2,200円分食べられたかと問われれば・・・結局、ご飯 ・味噌汁・ウィンナー・・・とありきたりのしか取らないんですけどね。そうそう。コックの人にクンクンのパンケーキを焼いてもらったら、チョコでアンパンマン(かな?目の下の線がデビルマンの不動明っぽくもある)の顔を描いてくれた。でも、クンクンはアンパンマンが嫌い(*)なのである。

※小さい頃は大好きだったが、保育園で誰かに「アンパンマンってあかちゃんがみるんだよね〜」とか心ないことを言われたのではないかと思われる。

ココナッツテラスへ向かう

窓の外はプール!ビーチ!

果物達のお出迎え

ひとつ代表でアップしよう

今朝はとりあえずこんな感じで

 その足で中庭にあるフィッシュボンドへ。中庭と言っても敷地が非常に広いため、探すのに結構歩き回ってしまった。毎日9時と17時がサカナのエサやりタイムとなっている。サカナどもには堅くなったパンを 。ウジャウジャ寄ってきたエイには (人間にもうまそうな)サカナの刺身だ。どちらも、レストランの食べ残しなのだろう。エサ係の人がエサの大袋を用意しているので、そこから勝手に取ってやり放題なのである(自分で喰ってもいい・・・と思う)。タイマイ(ウミガメ)も大きいのと小さいのが一匹づついる。なお、タイマイは 非常に貴重な生物のため、日本の水族館では大枚をはたいて購入するらしい。

 これ、結構楽しいので、夕方も明日も明後日も、毎日来ようと思っていたが、パラオではやらなきゃならないこと(遊ぶこと)が多く、結局エサやりはこれっきりとなってしまった。本当に残念...
 

正面から部屋を一望。左端二階だよ

フィッシュボンドようやく発見

エサ係のパラオびと

ヨチヨチ。エイをナデナデ

値段が高いタイマイ

 

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 マリヤンには五歳になる女の児がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのだそうである。それも、彼が度外れた嫉妬家であるとの理由で。こういうとマリヤンが如何にも気の荒い女のようだが、――事実また、どう考えても気の弱い方ではないが――これには、彼女の家柄から来る・島民としての地位の高さも、考えねばならぬのだ。彼女の養父たる混血児のことは前にちょっと述べたが、パラオは母系制だから、これはマリヤンの家格に何の関係も無い。だが、マリヤンの実母というのが、コロールの第一長老家イデイズ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に属するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年団長をしているのは、彼女の才気の外に、この家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だった男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚している間は、やはり、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供らをみんな引連れて実家に帰ってしまうけれども)こうした家格の関係もあり、また、マリヤンが田舎住いを厭うので、やや変則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に来て住んでいた。それをマリヤンが追出したのである。体格からいっても男の方が敵(かな)わなかったのかも知れぬ。しかし、その後、追出された男がしばしばマリヤンの家に来て、慰藉料(ツガキーレン)などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけその願を容れて、また同棲したのだそうだが、嫉妬男の本性は依然直らず(というよりも、実際は、マリヤンと男との頭脳の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだという。そうして、それ以来、独りでいる訳である。家柄の関係で、(パラオでは特にこれがやかましい)滅多な者を迎えることも出来ず、また、マリヤンが開化し過ぎているために大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのじゃないかな、と、H氏は言っていた。そういえば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのようだ。夕方など、いつも内地人の商人の細君連の縁台などに割込んで話している。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンがその雑談の牛耳を執っているらしいのである。

[其の四]  引用元:青空文庫

 第二章(4) プライベートビーチ

  10時。水着に着替えて、ホテルのプール&プライベートビーチへ──そこは部屋を出て徒歩2分(急ぎ足なら)の超好アクセスだ。

 まずは、プール脇の小屋(下写真左端。ちなみに、ココナッツテラスは写真右端だよ)で部屋番号を「ナーゴナーゴ スリー ツー ワン ゼロ(言い過ぎた!)」と言ってビーチタオルとライフジャケット(共に無料)を受け取る。係の人はどこかで見た人だなと思ったら、さっきのフィッシュボンドのエサ係さんの兼務であった。

 シュノーケル二点セットは日本から持ち込んでいたので、明日からのオプショナルツアーに向けての練習を兼ねて、フィン (足ヒレ)だけを借りることにした。レンタル料は、一足500円なので、大人用と子供用各一ヒレをヨロシクとネコ語で言ったところ、新設な係員さんは大人用一ヒレをオマケしてくれた。ありがたし。(でもやっぱり、足ヒレも買っておいた方が良かったなぁ。後々も必要だった)

 雨が降ったり止んだりの天候のせいか、プールもビーチも人影まばらである。 荷物は、ビーチ側に置くことにした。ビーチには青いカバナと白いパラソルが交互にならんでいるので、比較的雨に強そうなカバナに荷物を置いた。それにしても、すこしばかり肌寒いような...

 プールは手前こそ浅いが、奥に進むにつれ深くなって水深二十メートルにも達する(たぶん)。ヒィー!しかし、これはシュノーケルの練習には最適の環境だ。実際、してる人何人もいるし。これがもし、日本のプールであって、シュノーケルを咥えて泳ごうとしようものなら、直ちに監視員に連行されて、閉鎖病棟行きは免れまい。

 お昼は、プールサイドバーの『メセキュウォーターホール』へ。飲み物以外の食事はホテルレストランから運ばれてくるため、メニューは洋食からお蕎麦お結びまでメニュー豊富である。クラブサンドイッチ(13$+10%サービス料)が旨い最高と聞いていたので、これと100%アンガスチーズハンバーガー(17$+10%サービス料 。面倒なので、サービス料10%の記載は今後省略す)を注文す。ハンバーガーの方が気に入ったが、どちらもボリュームたっぷりで、三人ともお腹いっぱいになった。

用具はココで借ります

プールにて不適に笑う

ライフジャケットを着て

誰?

バタバタバタ!フィンの写真忘れた

 激しいスコールが途中あり、一時中断も余儀なくされた(雨粒が痛いので屋根の下に避難す)ものの、初フィンの結果は、彼女が一番うまく、クンクンのネコ泳法が最も高速であり、ボクが一番ヘタクソなのが判明す。

ライフジャケットでプーカプカ

空模様やばくね?

メセキュウウォーターホール

クラブサンドイッチ。ポテトたっぷり付き

ニワトリがおねだりにやってきた

 カウンターでお昼を食べていると、一羽の勇気あるニワトリがクレクレと何度もねだりにやって来て、クンクンから多量のパンくずをゲットした。

 午前中は波が高かった海も、午後になって穏やかになってきた。プールでの練習成果を見せんと、海に入ってシュノーケリング(と言っても、プカプカ浮くだけ)。波打ち際付近から少し沖合まで行くと、珊瑚の岩があちこちになり、そこには色とりどりのサカナが群れていた。
 去年グアムでシュノーケリングをした時は、メダカっぽいサカナ数匹と足の踏み場もないほどの多量のナマコを見かけたものだが、比べものになりませんな...

プライベートビーチへ

シュノーケリング中

サカナいるぜ。金魚かな?

ワシャワシャと

巨大シャコ貝に毛の生えた足でタッチ

 午後は、プライベートビーチを中心に。 午前中荒れていたため、海中が濁っていたが、クンクンが巨大シャコ貝を発見。この毛むくじゃらの足との大きさ比較を見ていただきたい。 なお、彼女はこれはシャコ貝ではなくて夜光貝なのよ。(口の中が)紫色だからと言ったが、後でネットで調べたら、夜光貝って巻き貝ジャン。

     

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 マリヤンには五歳になる女の児がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのだそうである。それも、彼が度外れた嫉妬家であるとの理由で。こういうとマリヤンが如何にも気の荒い女のようだが、――事実また、どう考えても気の弱い方ではないが――これには、彼女の家柄から来る・島民としての地位の高さも、考えねばならぬのだ。彼女の養父たる混血児のことは前にちょっと述べたが、パラオは母系制だから、これはマリヤンの家格に何の関係も無い。だが、マリヤンの実母というのが、コロールの第一長老家イデイズ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に属するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年団長をしているのは、彼女の才気の外に、この家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だった男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚している間は、やはり、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供らをみんな引連れて実家に帰ってしまうけれども)こうした家格の関係もあり、また、マリヤンが田舎住いを厭うので、やや変則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に来て住んでいた。それをマリヤンが追出したのである。体格からいっても男の方が敵(かな)わなかったのかも知れぬ。しかし、その後、追出された男がしばしばマリヤンの家に来て、慰藉料(ツガキーレン)などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけその願を容れて、また同棲したのだそうだが、嫉妬男の本性は依然直らず(というよりも、実際は、マリヤンと男との頭脳の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだという。そうして、それ以来、独りでいる訳である。家柄の関係で、(パラオでは特にこれがやかましい)滅多な者を迎えることも出来ず、また、マリヤンが開化し過ぎているために大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのじゃないかな、と、H氏は言っていた。そういえば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのようだ。夕方など、いつも内地人の商人の細君連の縁台などに割込んで話している。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンがその雑談の牛耳を執っているらしいのである。

[其の四]  引用元:青空文庫

 第二章(5) パラオの夜

ウェルカムドリンクいただき

321号室はどこじゃ?

右側のどあじゃ

 17時。クンクンが足をサンゴで擦りむいてしまったので、そろそろ仕舞いましょうと部屋に戻る。こういうきっかけでもないと、クンクンは「まだー。もう少し。もう少し」と拒否するに決まっているので、(クンクンには悪いが)タイムリーだった。

 部屋に戻ると、ベッドメイキングが既に終わっており、部屋のシャコ貝の皿の花の飾り付けが変わっていた。

 着替えて部屋で少し休みますか。さすがに疲れたので、パスドラをやろう。実は、クンクンもこれに夢中なのである。
 ちなみに、Wi−Fiについてだが、フロントでもらえるID・パスワードの紙は一台分だけ。そのため、追加でもう一枚もらった。「Wi−Fi プリーズ?」「何台分ご必要でしょうか?」「イエスタデーワンスモア ワンワン モアモア(あれ?フロントの人日本人じゃん)」このID・パスワードは4日間有効で、ぴったり飛行機運行スケジュール&滞在日数に合わせているようだ。回線状況については、不安定の一言。日や時間帯によって、モデムのようだったり、繋がらなかったり、不安定だったり、全然ダメだったり。これは、パラオのインターネットが細い衛星回線一本しかなく、それを島人と観光客が奪い合っているためらしい。繋がればラッキー程度で、あまり信用しない方がいいだろう。

 では、ホテル探索&散歩へ 出かけましょう。敷地が広いので結構歩きがいがあるのだ。フィッシュボンドに行ったらエサやりはとっくに終わってしまっていた。「ナーゴナーゴ」巡回中のミケネコにまた逢ってご挨拶。この後、ホテルでの滞在中、クンクンはよく「ネコいないかなぁ?」と探していたが、一期一会。残念ながらもう出逢うことは出来なかった。

 グルグルと小道を適当に歩いているうちに、いつの間にかホテル正面に出てしまったので、フロントを突き抜けて、またビーチへ。海を見ていると、18:30、ホテルの人が松明に火を灯しにやって来た。一本一本チャッカマンで灯していく。ビーチ右手奥の岬へ。ここから振り返ると、PPRの全景が見える。次第に薄暗くなってきて・・・そろそろ・・・「お腹すいた!」とクンクン。

椰子の間の松明に灯が

岬(堤防)の突端へ

太平洋に沈む夕日

そこからPPRを振り返る

部屋に戻る最後に

         

 18時。夕食は、朝に引き続き「ココナッツテラス」でディナービッフェ。大人39$、子供19.5$の高額ディナーだが、遠くパラオまで来てまでケチるわけにもいくまい。それにPPRに お安いもんなんてないのだ。ヤケになったボク達は、豪勢にもカクテル10$×2、スムージー7$を追加注文しちゃった。いつもだったら、水道水を飲んで我慢するところなのだが・・・。
 ディナーのテーマメニューは曜日で変わり、日曜日はジャパニーズデー。普通、海外旅行の最後の頃に日本食が懐かしくなるものだが、最初からではいさかか気分が出ない。しかし、月曜日は地元の子供達によるポリネシアンダンスショー (19:00〜19:30)がある日なので外せまい。ここはミクロネシアなのにポリネシアとはこれ如何に?



 食事は寿司や天ぷら刺身などetc・・・決してインチキ和食ではない。高いですけど、美味しい。
 オープンテラスの席でショーを楽しみ、最後にショーガールが観客の子供達の手を引いて、プールサイドのステージへ強制連行。クンクンも恥ずかしいような嬉しいような表情でステージにズリズリ引かれていった!

ジャパニーズデー

カクテルと寿司と刺身

外でポリネシアンショーが始まった

どこどんどこどんどこどん

パラオの子供達

 22時就寝。明日はイルカに逢える。晴れるといいなぁ!


踊らにゃソンソン♪ 

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 私はマリヤンの盛装した姿を見たことがある。真白な洋装にハイ・ヒールを穿き、短い洋傘を手にしたいでたちである。彼女の顔色は例によって生々と、あるいはテラテラと茶褐色にあくまで光り輝き、短い袖からは鬼をもひしぎそうな赤銅色の太い腕が逞しく出ており、円柱の如き脚の下で、靴の細く高い踵が折れそうに見えた。貧弱な体躯を有った者の・体格的優越者に対する偏見を力めて排しようとはしながらも、私は何かしら可笑しさがこみ上げて来るのを禁じ得なかった。が、それと同時に、いつか彼女の部屋で『英詩選釈』を発見した時のようないたましさを再び感じたことも事実である。但し、この場合もまた、そのいたましさが、純白のドレスに対してやら、それを着けた当人に対してやら、はっきりしなかったのだが。

 彼女の盛装姿を見てから二、三日後のこと、私が宿舎の部屋で本を読んでいると、外で、聞いたことのあるような口笛の音がする。窓から覗くと、すぐ傍のバナナ畑の下草をマリヤンが刈取っているのだ。島民女に時々課せられるこの町の勤労奉仕に違いない。マリヤンの外にも、七、八人の島民女が鎌を手にして草の間にかがんでいる。口笛は別に私を呼んだのではないらしい。(マリヤンはH氏の部屋にはいつも行くが、私の部屋は知らないはずである。)マリヤンは私に見られていることも知らずにせっせと刈っている。この間の盛装に比べて今日はまたひどいなりをしている。色の褪せた、野良仕事用のアッパッパに、島民並の跣足である。口笛は、働きながら、時々自分でも気が付かずに吹いているらしい。側の大籠に一杯刈り溜めると、かがめていた腰を伸ばして、此方に顔を向けた。私を認めるとニッと笑ったが、別に話しにも来ない。てれ隠しのようにわざと大きな掛声を「ヨイショ」と掛けて、大籠を頭上に載せ、そのままさよならも言わずに向うへ行ってしまった。


[其の五]  引用元:青空文庫

 第三章(1) パラオは晴天なり 2013年8月26日(月)

 7時30分起床。ムニャムニャ。早く起きようとする気持ちはあるのだが、なぜかだんだん起きるのが遅くなる。

 おおっ!ベランダの外はあまりに素晴らしき晴天。悲しくなるほどに大気が透明だ。我が祖国ヤッポンでは、こんな抜けるような晴天は絶対に絶対にあり得ない。ベランダからの写真三枚をどーぞ。(どうせならパノラマで撮っときゃよかった)

 今日もホテルのプライベートビーチで遊びたいところだが、本日午前中はコロール市街でお買い物(あまり大したものは売ってないとの噂だが)の予定だ。そうそう、まだでしたね。クンクンが起き出す前に、部屋の様子でも写真で紹介しておこう。
 それにしても、写真をホイホイ気軽にパシャパシャ撮っているだけなのだが、何を撮っても不思議といい絵になってしまう。いやホント、ヤになっちゃうくらいに。何故なんでしょうね?今回の旅行記では、つまらない文章をダラダラ書き殴るよりも、写真をメインとしている。皆さんもその方がいいでしょ?

玄関脇のストーリーボードの置物

ベッド(クンクンが寝転がっている)

ベッド上のストーリーボード

ベランダ側

天井。センプウキ付きじゃ

 コテージ風の部屋は開放感あふれ、鍵・置物・ストーリーボードはジュゴンで統一。天井は切妻風で、二階部屋だからだろうか。ストーリーボードが誰の作なのか気になる。

ベランダ(水着干し中)

土方氏の版画1

土方氏の版画2

洗面所&バスルーム

レストルーム(お花畑)

 土方氏の版画はいささかアダルトタッチである。描いたの戦時中だってのに...。風呂もトイレも広く、朝青龍二人が便座に座ることが十分可能だ(ウソ)。

 8時。朝食は毎度おなじみ「ココナッツテラス」へ。今朝はオープンテラス(昨晩のディナーもそうだったけど)に案内してくれた。野村不動産のプラウドのCMのような贅沢な時間がしばし流れた...

何を食べようかな

本日のフルーツ代表としまして

今朝のモーニング

オープンテラスの屋根はこんな感じ

席からの眺め。海があるのう。

 

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 去年の大晦日の晩、それは白々とした良い月夜だったが、私たちは――H氏と私とマリヤンとは、涼しい夜風に肌をさらしながら街を歩いた。夜半までそうして時を過ごし、十二時になると同時に南洋神社に初詣でをしようというのである。私たちはコロール波止場の方へ歩いて行った。波止場の先にプールが出来ているのだが、そのプールの縁に我々は腰を下した。
 相当な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が大声を上げて、色んな歌を――主に氏の得意な様々のオペラの中の一節だったが――唱った。マリヤンは口笛ばかり吹いていた。厚い大きな唇を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむずかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、それらが元々北米の黒人どもの哀しい歌だったことを憶い出した。
 何のきっかけからだったか、突然、H氏がマリヤンに言った。「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな声を出したのは、家を出る時ちょっと引掛けて来た合成酒のせいに違いない)マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地の人でなきゃ駄目だなあ。え? マリヤン!」「フン」と厚い唇の端をちょっとゆがめたきり、マリヤンは返辞をしないで、プールの面を眺めていた。月はちょうど中天に近く、従って海は退潮なので、海と通じているこのプールはほとんど底の石が現れそうなほど水がなくなっている。しばらくして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れてしまった頃、マリヤンが口を切った。「でもねえ、内地の男の人はねえ、やっぱりねえ。」
 なんだ。こいつ、やっぱり先刻からずっと、自分の将来の再婚のことを考えていたのかと急に私は可笑しくなって、大きな声で笑い出した。そうして、なおも笑いながら「やっぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑われたのに腹を立てたのか、マリヤンは外っぽを向いて、何も返辞をしなかった。

[其の六]  引用元:青空文庫

 第三章(2) コロール探索

 

   

このカッコイイ車がタクシーで、運転手のおっちゃんで、ついでにPPRの正面ゲートじゃ

 9時30分。ロビーでタクシーを呼んでもらうと、ほんの5分ほどでタクシーがやって来た。パラオ唯一の?都市・コロールまでの料金は、運転手さんに聞いてみたところ、7$也。予想どおりだ。
 パラオのタクシーは、日本の廃車置き場に積まれているようなソレが多いのだが、来てくれたタクシーはまずまずであった。しかし、メーターなんていう無駄なものはパラオのタクシーにはないため、乗る前に「ハウマッチ?」と料金を聞くのがジョーシキなのである。

 運転手さんは寡黙な白髪のパラオ男。車窓から流れる景色はこんな風景。パオ(集会所?)みたいなところにはパラオの野郎ども(男ばかりだったので)がのんびり寝そべっており、木の間に家々があって、土手がない(日本だったら騒がれそうだ)ニホンバシを渡って、パラオ高校(パラオの義務教育機関は、小学校と高校なのだ)とパラオ短期大学(Palau Community College、パラオ唯一の高等教育機関)があって・・・

    

 ・・・と、10分ほどでコロール市街のパラオ最大のショッピングセンター『WCTCショッピングセンター』に到着す。思ったより早く着いてしまったので、開店の10時にはまだ10分ほどある。そこで歩いて5分程の『パレイシアホテル』に行ってみることにした。ここは、昨日(だよね)空港からPPRへのバスでちょっと寄ったトコで、台湾系資本のホテルらしい。
 『バレイシアホテル』内にはパラオ最大のDFSがあるそうなのだが、入ってみたらPPRにあるやつに毛が生えたくらい(あんまり変わらない)の広さで、結局何も買わなかった。『パレイシアホテル』は、パラオ三本の指に入るホテルで、そのウリは開放感溢れる吹き抜けのロビーだそう。そこから見え たプール(太った日本人っぽいおじさんと子供各一名いた)は「う〜ん(浅イイ)」って感じ。やはり、PPRは別格なんでしょうね。

WCTC。ここから出て左へ

歩き出した。しっかし何もないねえ

振り返る。右がWCTCだ。ガラーン

ややあって、パレイシアホテル

ロビー。台湾系?の女の子ゲーム中

パレイシア自慢のプール

 さて、そろそろ『WCTC』へ戻ろう。ここらへんはコロールの中心街のはずだが、写真で見てのとおり、なんつーか、それっぽくないんですなぁ。道路はメチャ広いが、信号が見当たらないので、目をつぶって両手耳をふさぎながら一気に駆け渡らなければならない。今は平日の昼前なので道路がガラガラだが、 夕方になると食事のために訪れる観光客の車でかなり混むそうだ。

 『WCTC』の一階は食料品、二階が洋服・土産・家電となんでもござれだ。パラオ最大のショッピングセンターといっても、日本の地方都市のジャスコにもかなり劣る感じ。悩みつつ、メイドインフィリピン (パラオ産ってのがないので仕方ないのだ)の職場用バラマキエサを購入す。とある会社への土産の有る無し調査によると、7割が「なし」派だったそうだが、ウチの職場はあるんだよねぇ。

 ついでに、『WCTC』隣にある『yano'sローカルフードマーケット』へ。むっ!クセー魚クセー!グワッ!
 ここで昼食用にスパムおにぎりとチャーハンを買う。ここ安いですぞ。買ったものを食べるカウンターもあって、何人か座っていた。ちなみにここは、ヤノ(矢野)さん一族経営であるが、ヤノさんは生粋のパラオ人。日本統治時代の名残でヤノという名前はパラオ人にも珍しいわけではないそうだ。

 さて。ここからが問題だ。ボクの事前調査によると、パラオにはタクシー乗り場なんて下品なものはない。ホテルやレストランで「タクシー ヨンデ プリーズ」とお洒落に頼むのがセオリーだが、買い物だけのボクたちにはこの手は使えない。そこで考えていたのが、(1)WCTC向かいの小さなパラオホテルの隣の空き地にタクシーがよく駐まっているそうなので、捕まえる。(2)パレイシアホテルまで戻って、恥を忍んでフロントに頼む・・・この二案を考えつつ、ビニール袋の大荷物を抱えてWCTCの前を横切った時、道向こうから大声が聞こえた。「ふにゃふにゃふにゃ!」むむっ?例のパラオホテルの空き地で、パラオ人のオジサンが手を振り回している。何言ってんだかさっぱり分からないが、とりあえず「イエース」と答えると、オジサンは「ほにょほにょほにょ!」と言った。たぶん、そこで待ってろという意味だろうと思って待っていると、オジサンは年代を経た深紅の車をキュキュッと回してくれた。「PPR ハウマッチ?」「ナナダラ〜」やったぜ!案ずるより産むが易しだった。

 オジサンが「むにゃむにゃむにゃ?」・・・たぶん、非常に美味しくてジューシーなハンバーガー屋を知っているので、そこに連れて行ってやろうかと言っているような気がしたが、残念ながらもうあまり時間がない。「ノーサンキュー」

 たぶん、またパラオに来ることがあっても、コロールは一応充分かな?

WCTC 2階

WCTC 1階

その隣の『矢野ローカルフードマーケット』

向かいが『パラオホテル』

乗ってきたタクシー。ありがとん

※パラオは、日本統治時代に日本語教育がされていたせいで、今でも多くの年配の方が綺麗な日本語を話せるほか、日常生活にも一部日本語が残っている。
 イタイ。ゾウリ。ベンジョ。ヒコウキ。イソガシイ・・・などなど。パラオ人の名前も、シゲオ。フミコ。クニオなどのほか、スズキサン。などサンまで入った名前も。
 面白いところであは、ツカレナオース(ビールを飲む)。チチバンド(ブラジャー)。アチュイネ(暑いね)。アイコデショ(じゃんけんぽん。最初なのに)なんてのもある。

 11:10。幸いなことに、PPRに帰着することが出来た。

環礁――ミクロネシヤ巡島記抄――マリヤン 中島敦

 この春、偶然にもH氏と私とが揃って一時内地へ出掛けることになった時、マリヤンは鶏をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をしてくれた。
 正月以来絶えて口にしなかった肉の味に舌鼓を打ちながら、H氏と私とが「いずれまた秋頃までには帰って来るよ」(本当に、二人ともその予定だったのだ)と言うと、マリヤンが笑いながら言うのである。
「おじさんはそりゃ半分以上島民なんだから、また戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(困ったことに彼女は私のことをこう呼ぶのだ。H氏の呼び方を真似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまいには閉口して苦笑する外は無かった)はねえ。」「あてにならないというのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地へ帰ったら二度と戻って来た人は無いんだものねえ」と珍しくしみじみと言った。

 我々が内地へ帰ってから、H氏の所へ二、三回マリヤンから便りがあったそうである。その都度トンちゃんの消息を聞いて来ているという。
 私はといえば、実は、横浜へ上陸するや否や、たちまち寒さにやられて風邪をひき、それがこじれて肋膜になってしまったのである。再び彼の地の役所に戻ることは、到底覚束無い。
 H氏も最近偶然結婚(随分晩婚だが)の話がまとまり、東京に落着くこととなった。もちろん、南洋土俗研究に一生を捧げた氏のこと故、いずれはまた向うへも調査には出掛けることがあるだろうが、それにしても、マリヤンの予期していたように彼の地に永住することはなくなった訳だ。
 マリヤンが聞いたら何というだろうか?

[其の七]  引用元:青空文庫


中島敦

 1909年5月5日東京にて生。東京帝大卒。1933年横浜高等女学校教師として国語と英語の教鞭をとりながら創作に励むが、喘息の悪化により休職〜退職。生活のためと転地療養を兼ねて、1941年7月南洋庁国語教科書編集書記としてパラオに赴任。1942年3月、戦局の激化に伴い、土方久功氏(上記H氏)と共に帰国。同7月文部省を辞任。この頃からのわずかの期間に「山月記」「光と風と夢」など多くの作品を発表したが、喘息の発作で同12月4日死去。享年33歳。遺稿に「李陵」がある。 (写真は、PPRロビーにあった土方氏の画。彼女がマリアンかどうかは分からない)

 第二章(3) ドルフィン・ベイへ

PPRの売店「ロゴブティック」

今日のランチはこれだあ!

ドルフィンズパシフィックカー

 11時10分。PPR到着。ちょっと足りないかなと、ホテルのDFS隣にあるショップ『ロゴブティック』でサンドイッチ(4$×2)を買って、部屋で食べる。 スパムおにぎり(1$75¢)はクンクンが独り占めなので、味は分からず。チャーハン(2$75¢)はニンニクっぽくて精力つきそう。ホテルのサンドイッチは美味しいかったが、町で買うのと比べるとやっぱり高いですねぇ。

 12時30分。ホテルロビーで待っていると、予約していたオプショナル・ツアーの係の人(日本人女性)がワゴン車でお迎えに来てくれた(PPRからは我々一組だけ)。ニホンバシを渡って右折し、ミナト橋を通ってマラカル島へ。ほんの10分ほどでドルフィンズ・パシフィックのチケットセンターに到着した(8月15日に同島のネコマリン敷地内から移転したばっかり)。
 受付で料金(300$:60$×2+80$×3)を払って、ライフジャケットとフィンを受け取った。ツアーのお客はカップルやファミリー5組くらいかな。半日のツアーなのに料金が高いが、午前と午後二回のコースで、イルカは数頭しかいないから大人数は無理。逆にやっていけるのかと心配になるくらいだ。イルカのエサ代も大変でしょうしね。やつら食いしん坊だから。

ドルフィンズパシフィック:2000年に設立された非営利法人。ドルフィンベイは世界最大級のイルカ飼育施設であり、浮かぶ浮き桟橋で区切られた10のプールからなる。飼育するバンドウイルカは日本の和歌山から運ばれた。 (下の写真撮影時点より、現在はイルカプールの区画が増えている。なお、場所については写真をクリックでドルフィンズパシフィックの該当ページへ)

  

 出発まで少々待ち時間があったので、外のガソリンスタンド脇の売店でお茶を買う。ポッカの緑茶なのに、実は甘〜い砂糖入りだった... 海外では、こういうのはよくある話。

ドルフィンズパシフィックのチケットセンター

中に入ると、ここドコと一瞬ドキッとするが

受付はこの奥でございます

奥にはツアーのメンバーどもがおった

クリックで拡大

 13時。チケットセンター隣の桟橋からボートで出発し、紺碧の波をかき分け約5分の航海。ドルフィンベイへ。
 巨大なベイ(パラオ伝統の集会場)に似せた建物『オブザベーションビルディング』が真っ先に現れる。うぉー!思っていたより全然デッケエ!もう少しチッポケでニオイが臭いイルカプール(そこには吹き出物だらけの老イルカが腹を上にして プカプカ浮かんでいるのだ)みたいなものを想像していたんだけど...

いざ出航!

パラオ人家族や韓国人カップルもいた

紺碧の海をひた走る

あれは何だ!?鳥か!飛行機か!・・・

・・・オブザベーションビルディングだ!

ゾロゾロ怪傑ゾロ

 さあ、イルカだ!ボクはイルカには知り合いがいないが、小さい頃「わんぱくフリッパー」というテレビドラマをよく見ていて、イルカの鳴き声のマネだけは得意なのだ。「カカカカッカカカカッ!カカカカーカッ」ってね?フリッパーは、TVで悪人をやっつけた後、足ヒレで上手に立ち泳ぎしながらよく鳴いていたモンだったなぁ。

 やがて、バイに似せた『オブザベーションビルディング』の巨大な三角屋根が大きくなってきた。

バイ:パラオの伝統的な集会場で、アバイとも云う。釘を使わない三角屋根と高床が特徴である。酋長用のバイと集会用のバイがあり、酋長用は女人禁制で、様々な政治などの話し合いに使われたが、話し合いは長時間に渡ることがあるため、各人の座る場所におしっこをする穴が空いていた。非常に合理的な工夫である。集会用のバイは、子供達が狩りや大工仕事を習うことにも使われた。なお、酋長用のが女人禁制であるとはいっても、パラオは女系社会(土地や家は女性が相続した)であり、男達が長時間相談して決めた事も、女性の一言でひっくり返ることも多かったそうだ。

 米軍との決戦が迫る中、899名いたペリリュー島民の代表者たちが島の中央にある守備隊司令部にいる中川隊長に会いに行きました。司令部は、もとは日本が建てた公学校にありました。
 ペリリュー島というのは、中心のコロール島から南へ約50キロ。南北9キロ・東西3キロの珊瑚礁からできた小さな島です。島の南に日本軍の大きな飛行場がありますが、この戦争でどんどん撃墜されて、今ではたったの八機しか残っていません。でも、島の人々は、白人統治の時代と比べて、自分たちを人として扱ってくれた日本人が好きで、日本兵と仲良くなっていっしょに歌を歌ったりしていました。中川隊長はいかつい顔をしていましたが、自分たちにはいつもにこにこ笑いかけるやさしい隊長さんだと慕っていました。

 「私たち島民全員で話し合いました。いっしょに戦わせてください」
 代表たちは、それでなくても日本は兵隊が足りないんだし、隊長さんは大喜びしてくれるだろうと思っていました。

 ところが、中川隊長は、険しい顔で口をへの字に結ぶや轟くような大声で怒鳴ったのです。
 
 「馬鹿者が!帝国軍人が貴様ら土人如きと戦えるか!」

 土・・おれたちが土人だって・・・島の人々はショックを受け、日本人に裏切られたと怒り悲しみました。

 数週間後。いよいよパラオ本島へ島民たちが強制疎開させられる日が来ました。夜陰に紛れての船出です。この島に帰れるのだろうか。島の人々は懐かしい故郷を目に焼き付けようと、暗い岸辺に目をこらしました。

 その時でした。暗闇から何百人もの日本兵が飛び出してきて、岸辺に並びました。そして日本の歌を歌いながら、船に向かってちぎれるほど手を振りました。
 島民たちは、はっと悟ったのです。あの時の隊長の真意を。島民たちを戦火に巻き込まないよう、隊長は乏しい船と燃料をやり繰りして、避難のための船を手配してくれたことを。 
 兵隊達はみんな笑って手を振っていました。その中で、一番大きな声で歌い、輝くような笑顔でいつまでも手を振っていたのが、中川隊長だったのです。


 この物語は出来すぎの感あり。土人という言葉は差別語だが、前述の中島敦が内地の妻に当てた手紙には「土人の教科書編纂・・無意味さが判って来た。土人を幸福にしてやるにはもっともっと大事なことがある・・オレはもう、すっかり編纂の仕事に熱を持てなくなって了った。土人が嫌いだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民がスキだよ。南洋に来ているガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない」と書いている。してみると、なんとなく当時は、「土人」と言われたくらいで、大ショックを受けて地に伏し天を仰いで嘆き悲しむほどのモンでもなかったのではないかと思うのだ。当時はね。
 物語かどうかはともかく、日本軍が島民を避難させ、一人の犠牲者も出さなかったことは紛れもない事実だ。

 第三章(4) わんぱくフリッパー

 最初に日本人グループとそれ以外グループに分かれて、『オブザベーションビルディング』の2階に荷物を置き、クロースエンカウンターを受講だ。これは、訳してイルカさんニコニコふれあいコースだが、最初に全員が一度は受けなければならない(二回目からは受けなくて良い。但し三年間有効)。なお、ラッキーなことにお子様無料のため、受講料大人60$×2(現地払い)である。
 まずは写真を見て、イルカさんの名前と家族関係を深く学んだ。重要なことだ。本当は教えてはいけないのだが、読者の皆さんにだけこっそり名前を教えよう。レイラ、アリエル、ロキシー、ジェイ、モミロイだ。──覚えたかな?さらに講義では、モミロイのお母さんは誰かと全員にテスト(質問)されるので、写真を見て、歯の数が同じイルカの名前を答えよう。グループの中で、ただ一人ボクだけが正解した。これは、わんぱくフリッパーを熱心に視聴していた賜である。なお、歯の数が数え切れない場合は、目の数でも良いだろう。

オブザベーションビルディング2F

トイレ・シャワーはアチラの建物(とっ遠い)

まずはイルカさんの名前から覚えよう

浮き桟橋へ降りてイルカプール

イルカが葉っぱを持ってきた

 イルカは落ち葉を食べるとお腹を壊してしまうため、落ち葉を咥えて来たら、引き替えにエサがもらえるという訓練がされている。

イルカ水飲み中。世話がかかりますな。

メインイベントのアクシュー!

いいモン見せてくれるというので

トコトコ端っこの方へ付いてくと

ナゾ?の隠し?レイク?へ

 握手とジャンプは撮影禁止で、有料で購入となる。なお、ジャンプは写真を買った人のみ(つまりボクたちファミリーだけ)体験だ。

 座学(立ってたけど)が終わったら、浮き桟橋に降りて、イルカ観察の実践だ。このふれあいタイムでは、桟橋に寝そべってイルカとアクシュしたり、手をピシッと挙げてイルカをジャンプさせた写真を撮ってもらって、それを購入することが可能だ(実際、買わされちゃった。上と右の写真)。握手とジャンプは撮影禁止なので、スタッフによる有料となる。いい商売でんナ〜。なお、握手は全員させてもらえるが、ジャンプは有料写真を買うと申し出た人のみなのじゃ。つまりボクたちファミリーだけ。みんな指をくわえてうらやましそうに見ていた。カネを惜しむからじゃ。

 まあ・・・実は、ジャンプの写真。
1 先に手を挙げておく。
2 しばらく待つ。腕が疲れる。
3 スタッフがようやくイルカを説得して、ジャンプさせる。
4 パシャリ。

 こうして、あたかも、自分たちがイルカを見事ジャンプさせたように見える写真が完成する。アホみたいに手を上げているでしょ? あー恥ずかしい!そういえば足短くね?

 第三章(5) イルカに乗った少女

 15:00。『オブザベーションビルディング』に一回戻って、シュノーケルセットを持ってイルカプールへ。ここからは個人のデジカメ持ち込み禁止のため、あまり写真がない。

 次なるは、ドルフィンシンフォニーの部。ダイビング出来る人用にはイルカダイビングコースがあるが、泳げない哀れな金槌達は、こちらのコースを選ぶことになる。イルカにペタペタ触ったり、イルカの背びれにつかまって引きずられているビデオを撮ってもらって、購入し放題(これまた買わされた)なのだ。やったねっ!なお、このコースは、イルカがクソ重いデブ達を引きずらなければならない分、イルカが腹ペコになるため、お値段少々お高く80$×3であり、子供無料サービスはない。

オブザベーションビルディングに戻って

外のベンチで少々待つ

イルカに触って

城みちるかトリトンか

 シュノーケルをつけて、イルカプールへ。最初にシュノーケル練習タイムがある。横一列にぷかぷか並んでいると、イルカが近づいてくるので、すかさずサワサワする。イルカの触り心地は、まさしくナスのそれである。
 それから順番に一人づつプールに入って右手を横に出して浮いていると、イルカが近づいて来るので、背びれに掴まってプール一週。イルカのやつ、結構早いんだ。途中で振り落とされたらすごく恥ずかしいなぁ(他の人間共に笑われるのも我慢ならないが、イルカにまで「カカカカッカカカカッ!カカカカーカッ」と笑われては堪らぬ)がと思ったが、十人くらいチャレンジしたけど、何故か誰も失敗しなかった。最年少(唯一のこども)のクンクンもばっちりだった。

終わりじゃ〜

写真でも撮って(るのを撮って)

サヨ〜オナラー

彼方ではまだ手を振ってるんだよね

チケットセンター桟橋へ帰着

 15:30。ドルフィンベイをボートで出発。スタッフ全員(手が空いてる人)がズラ〜リ並んで、見えなくなるまで手を振ってくれた。丁寧過ぎるくらいに丁寧で、日本内地よりも日本的なサービス精神だった。このツアーには、韓国人カップルや中国人カップル(若いオネーサンと富豪らしきオッサン)、白人と日本女子カップルなど、多彩であった。やっぱり日本人が一番多かったですけどね。
 チケットセンターで15分ほど待って、迎えの車で、PPRまで送ってもらった。土手のないニホンバシをパラオ高校の女子高生達が歩いていた。授業が終わる時間なのだろう。只今16時也。

 第三章(6) プライベートビーチ再び

 まずは、売店で買ったアイスを部屋で食べて一休み。
 16:30、プライベートビーチ(&プール)へ。8月のパラオはまだまだ遊べる。今日はなんだかお坊様ファミリーが多いような気がする。高貴なオーラを感じるのだ。お坊さん達は、稼ぎ時のお盆が過ぎたこの頃、本来ならメジャーなハワイとかグアムで豪遊したいところだが、口うるさい檀家と出会う(坊主丸モウケだァと陰口をたたかれる)可能性が高いため、よりマイナーなパラオを選ぶのではないかと思われる。

ビーチ少し沖からPPRを望む

深く静かに潜行せよ

いるいる。サカナどもが・・・

スターミー ゲットだせ

砂浜に戻って次はプールへ行こうか

 昨日とは一転、波も穏やか最高の天気だ。夕方に近く時間があまりなかったのが惜しい。
     

たぶんデルタ航空のポーズかな?

次第に・・・

陽が・・・

暮れなずみ

アッという間のタメゴロー

 落ち始めると、あっという間に落ちますね。ふと気がつくと、2時間も遊んだんだ...

ココナッツクーラー&ビール

カルボナーラ

クンクンはポテト好き

 ホテルのショップで、お土産など買ったりして、19:30。夕食は、またまた『ココナッツテラス』へ。月曜日にビッフェはイタリアンナイト。日替メニューだが、並んでいるものは、(ちょっとは違うが)そんなに変わらないような気がするので、単品で注文することにした。カルボナーラ(14$)、シーフードリゾット(17$)、再度美味しかったので100%アンガスチーズハンバーガー(17$)と、ココナッツクーラー(7$)、地ビールのルースタービール(6$×2)じゃ。結局、ビッフェよりも安くはすんだ。
 とはいえ、ホテルだと高いには高いですし、どうせなら有名レストラン「エリライ」(近い)あたりに予約を入れて出かけた方が面白いかも。送迎してくれるらしいですしね。また「今度」があったら、そうしよう。

 さて。パラオも残すところあと一日。間違いなく明日がパラオ滞在のハイライトとなるだろう。そして、深夜にはホテルを後にしなければならない。

 そう!明日はロックアイランドへ。世界遺産へ。

 既に大東亜戦争は日本劣勢の戦況にあった。サイパン・グアム・テニアン・トラック島は米軍の手に陥ち、次にフィリピン奪還を、さらに来る沖縄戦をと意気込む米軍にとって、その後背をとるパラオは目の上のこぶであった。当初はパラオ全土を占領する計画であったが、戦略的効率のため、フィリピンに近く千二百メートルの滑走路二本を擁するペリリュー島とアンガウル島だけを占領し、その他の島々は兵糧攻めにより餓死させるにまかすこととなったのである。
 このことを逆に言えば、パラオは日本にとって何としても守らなければならない絶対的防衛圏上の重要拠点である。ペリリュー島には、歩兵第2聯隊長の中川州男大佐が守備隊長として赴任。約1万人の兵員とともに米軍を迎え撃つ準備を進めていた。
 
 米軍は、ペリリュー島に対し、9月6日から艦載機による予備爆撃を開始。さらに9月12日から戦艦5隻・重巡洋艦4隻・軽巡洋艦4隻・駆逐艦14隻による艦砲射撃により、ペリリュー島のジャングルを焼き払った。(右写真)

 当初の兵力差は、日本側は水戸歩兵第二連隊を中核とした精鋭10,500名。対する米軍は,ガダルカナル島の戦いで米軍最強とされた第一海兵師団を中心とした48,748名。さらに制空・制海権を押さえ、米軍の火力は日本軍を圧倒していた。第一海兵師団長のウィリアム・リュパータス海兵少将は、上陸前の訓辞で自信満々に言い放ったのである。「こんなチンケな島はほんの2・3日で片が付く。ところで諸君にお願いしたい。ジャップの守備隊長のサムライ・サーベルを私への土産として持ち帰ってきてくれたまえ。ウェーハッハッハ!」
 この時、少将は夢にも思わなかった。日本守備隊の決死のゲリラ戦法により、第一海兵連隊が損耗率54%を受け後退。さらには第一海兵師団自体が60%以上となる全滅判定を受け、おのれの高言の日からわずか1ヶ月半後に自身が解任され、心労の余り心臓病を患って本国に送還されるハメとなろうとは。

 第四章(1) インパック社へ 2013年8月26日(月)

上々の天気だ ココナッツテラス最後の朝食
 7時、なんとかかんとか起床。真っ先にベランダへと向かう。よかったー!ホッと胸をなで下ろす。昨日ほどには底抜けに抜けきってはいないけど、まずまず文句なしに抜けた空だ。
 もし一昨日のような荒れ模様であったなら、今日のツアーでは絶対間違いなしの地獄を見ることになったはずだ。ブルル。

ロビーで待っていると

オレンジ色の憎いバスが来た

バスの中

 7:40。毎度おなじみ『ココナッツテラス』へ。ベーコンとパンとコーヒー・・・この(高くて)ウマくて(高くて)ウハウハな朝飯もこれっきりだ。しかし、だんだんと喉にメシが入らなくなってきましたな・・・いえ、悲しくて胸が詰まったという理由よりも、そろそろ食い過ぎっぽいよーな。

 8:45。お迎えのオレンジ色のバスにてインパック社主催「カヤック&ジェリーフィッシュレイクツアー」へ大出発。

 パラオにはオプショナルツアーの催行会社がいくつかあるが、JTB超お勧めのロックアイランドツアーカンパニーよりインパック社のプランの方が安くて所要時間も長かったので、日本で予約(100$×2+子供55$)しておいたのである。
 ロングビーチ(潮が引いた時──「おお!見よ!」島と島の間を一本の美しい純白の道が海中からズングリモッコリムックリと現れるのだ)がコースに入っていないのが唯一の難点だが、8月でこの時期の昼間は、時間的に潮が満ちた時間帯である。いやいや。実はそれ以前に──先の台風で砂が流されちゃって、あと数年はロングビーチは現れないんじゃないかとのこと。嗚呼無情。本当に復活するならいいのだが。もしかして、数年後、あきらめたパラオ政府が、電動のコンクリート橋を造って、ツアー客を連れてきたガイドさんが隠しスイッチを押すと、海の中からザザーッ!とロングメカビーチが現れる・・・そうなっちゃうかも知れない。

 バスはまたまたニホンバシを渡って右折。昨日のドルフィンズパシフィックちょい前。ミナトバシ手前のインパック社へ。

 9:00。受付は賑わっていた。実際、パラオに来て一番の人混を見た(空港・ホテルレストラン除き)ような気がする。人をかき分けて、ジェリーフィッシュレイク許可証(右写真)を買う。許可証だけで100$×3という超特価(近年どんどん値上げしているらしい)。一週間有効ではあるが、ボクたちのような一日(しかも数時間)しか行かないファミリー旅行者にはいささか酷な値段である。なお、ジェリーフィッシュレイクを除く(ロックアイランドだけ)の場合は、50$と半額で済む。同じ世界遺産の富士山の登山許可証も、千円ぽっちではなく、外国人観光客達から1万円づつ集めればいいのにね。有効期限は倍の二週間ということにでもして。
 ここで、皆さんに耳より情報を。インパックではクレジットカードを使うと、5%の手数料を取る。3人分で1,500円は結構大きいので、出来たら現金で準備しておいた方が良いだろう。

インパック社 入口は奥に入って左側 ウヘー 混んどる 奥がレストラン 手前がオウムのやっこ ジャイブレストラン店内 このクルーザー(?)に乗り込む

 受付を済ませたら、建物裏の桟橋側に回ってライフジャケットとフィンを受け取り(料金に含む)、ジャイブカフェ&レストラン(JIVE Cafe & Restaurant)の中でしばらく待機。入口にオウムの「やっこ」がいたが、きゃつは無口であった。

 9:20。「青い屋根のボートに乗ってくださ〜い」。桟橋には似たようなボートが何隻も繋いであるので、間違えたら大変だ。

 しかし、一週間・一ヶ月と時が経つにつれ、圧倒的な戦力差は補給のない日本軍の激しい抵抗を徐々に弱らせていった。一時、パラオ本島から決死隊の上陸があったものの、焼け石に水。ペリリュー島の珊瑚礁の堅い地質を利用した洞窟陣地は次から次へと火炎放射器で焼かれ、兵士はブルトーザーで生き埋めにされ、弾薬そして食料も尽き、ついに主陣地は米軍に包囲された。

 11月22日。中川隊長は、本島のパラオ地区集団司令部へ電報を打つよう命じた。
 
−通信断絶の顧慮大となるをもって、最後の電文は左の如くいたし承知相なりたし。
  一、軍旗を完全に処理奉れり
  ニ、機密書類は異常なく処理せり
 右の場合、『サクラ』を連送するにつき報告相なりたし−

 通信断絶の顧慮大とは、通信機器用の電池も底を尽きかけていたため。そしてもう一通。
 
−地区隊は本24日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約50名をもって遊撃戦闘に移行。あくまで持久に徹し米奴撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。将兵一同聖寿の万歳ヲ三唱、皇運の弥栄を祈念し奉る。集団の益々の発展を祈る。−

 1944年11月24日16時。ペリリュー島守備隊長(歩兵第2連隊長)中川州男大佐は自決。本島のパラオ地区集団司令部あて、最後の電文が送られた。

−サクラサクラサクラ 我が集団の健闘を祈る 我、久野伍長 我、久野伍長− (久野伍長は通信兵の名)

 第四章(2) ロックリバーへ遠乗りしよう

 ボートは青い海の上をするすると滑り出した・・・えっ。おいおい、結構高速だ。曲がる時なんかかなり斜めになるし。そして・・・フゥ。目の前の景色は青くて白くて緑。なんつーかうまく文章では、表現出来ませんな。絵にも描けない美しさとはこのことなのだろう。つたない文章を書くよりも写真でも載せておいた方が遙かにマシというもの。

ガイドのジュン氏 ばっかもーん!波平アイランド遙かに 大砲と海鳥(アップ写真) 島々が浮かぶ これ、絶対斜めになってるよね? 海面近くは波で抉られている

 走り出してすぐに、右後方にPPR見ゆ。部屋の窓から見えたヤシの木一本だけの波平アイランドも浮かんでいる。浸食で削られた岩場に太平洋戦争時の日本軍の大砲があった。今は白い海鳥が二羽、錆び付いた大砲の上で羽根を休めている。この旅で戦争の傷跡を見たのはこれが最初である。ガイドさんが、ペリリュー島の話(オラ達もいっしょに戦いてぇ→ざけんなゴラァ→実はいたいけな住民を巻き込まないよう怒ったふりしたでごわす)を話してくれ、だからパラオは親日だそうでして。

 ガイドさんは焦げ茶色のジュン氏。一年前にパラオに来たとか。操舵手はパラオ人のキッカワコウジ氏(違ったかな?)。チーフは青銅の彫像の如き韓国人ビーター・ラビット氏(たしか)。20分ほど走って、名物『ナチュラルアーチ』の前でボートを止めて写真タイム。『ナチュラルアーチ』は隆起珊瑚で出来たロックアイランドの島々のひとつで、長年の波の浸食により穴ボコが空いてこのような造形となった。日本人なら眼鏡橋とか絶対名前を付けそうだが、統治時代はなんと呼ばれていたのだろうか?



ロックアイランド:元々の珊瑚礁が隆起した大小445の石灰岩の島々が、コロール島とペリリュー島との間の10万ヘクタールの海に点在する。珊瑚に囲まれたターコイズブルーの浅い海(ラグーン)には、水面近くが海水に浸食され、マッシュルームのような独特の形になった島が浮かぶ。中でも南西にあるセブンティーアイランドと呼ばれる約70の島々からなる一角は、野生動物保護のため立入禁止だが、空撮写真はパラオのパンフレットやガイドブックに必ずといってもいいほど使われる。日本統治時代、日本人はロックアイランドをの一角(コロール島南の旧ニッコーホテル(廃業)前の岩山湾付近)をパラオ松島と呼んだ。もちろん、本物よりも文句なしに美しい。2012年、パラオの「南ラグーンのロックアイランド」 は世界遺産に登録された。

 第四章(3) パラダイスの冒険

 10:00。シュノーケリングポイントの『パラダイス』に到着。ジュン氏によれば、ここはナポレオンフィッシュの宝庫らしい。でも、朝方はグーグー寝てるんですって。ヒデー。 

GPSによれば、パラダイスはここらへんのハズ 圧縮したのであまり画質は良くないですけど、たまには動画をどうぞ(FinePix xp150)

 一昨日昨日と、ホテルのプールとイルカプールで練習はしたものの、本格的なシュノーケリングはこれがお初となる。怖々と深そうな海にエントリーする。ヒィィ〜足が(当然だけど)つかねーっ!まるっきり!深さ海底二万里だウウ・・・怖ェ〜シヌーと一瞬思ったが、実はとても楽しい。色とりどりの魚や珊瑚。珊瑚。鯛や平目が舞い踊り、月日の経つのも夢の中という感じ なのさ。

パラダイスポイントへ到着 さあて。行こうか・・・ドキドキ さっそくピラニア?が集まってきた 魚群来襲だ! クンクン、早い
これがイヌ泳法なのである 歩いているわけではない。念のため ウマそうなオチャカナ達 ぷかぷか 帰艦命令が下った

 30分程で、後ろ髪を引かれつつボートに戻る。残念ながらナポちゃんは、睡眠中らしく見られなかった。ナポレオンは一日3時間しか寝なかったが、魚のナポちゃんはちと違うらしい。
 それでは、次なるポイントへ!

 翌朝にかけ、根本甲子郎大尉率いる55名が米軍陣地へ突撃を敢行した。米軍資料によれば、「斬込隊の一団は、包囲圏を突破できず、24日の夜から27日7時頃まで激しく交戦したが、全員死亡」とある。
 米軍による上陸開始から2ヶ月半後の11月27日。ようやく米軍はペリリュー島の占領を完遂したのである。
 なお、中川隊長の死を知るすべもなかった西海岸守備隊の小さな一団が、その後も米軍から武器食料を奪いつつゲリラ戦を続けた。わずかに生き残った34名が、終戦2年後の1947年4月22日に米軍に投降した。
 
 日本 戦死者10,695名、捕虜202名
 米国 戦死者 1,794名、戦傷者8,010名。
 なお、島民を含む一般人は、日本軍により全員避難させられたため、戦死者・負傷者ともに0名であった。


 終戦後、アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督は、自書にてこう述べている。「ペリリューを攻略するには、米軍史上最悪の戦闘損害比率を甘受しなけばならなかった。制海空権を握っていたはずの我が軍が1万人を超える死傷者を要したことは、はなはだもって疑問である」

 戦後、有志により建立されたペリリュー神社には、ニミッツの言と伝えられる(でも非常にアヤシイ。ニミッツは詩人ではない)石碑がある。
 
 『もろもろの国の旅人よ。あなたが日本の国を過ぐることあらば伝えてほしい。此の島を死して守った兵士の勇気と祖国を憶うその心根を』

パラオの国旗
 1979年に定められた。見てのとおり日の丸国旗と似ている。日本国内での一部の説によると、真ん中の「月」は日本の太陽(日の丸)を兄として慕うものであり、月が中心より若干左よりなのは、日本に対し失礼に当たらぬよう畏敬の念の現れであるとのこと。
 しかしながら、パラオ初代ナカムラ大統領は、「日の丸に似ていますね」の質問に、「そういう見方もあるよね」と苦笑いし、デザイン者のスキーボング氏は、「日の丸に遠慮して月にしたんですか」の質問に、「全然違うよ。日の丸は知ってるけど、特に意識したわけじゃない。日本は日本、パラオはパラオさ」とコメントしている。
 パラオの国旗は、空色と黄金色は、海と満月、平和と静寂、海と陸の豊穣を表している。


 第四章(4) ほのぼのレイク

 11時。『ジェリーフィッシュレイク』のあるマラカウル島は、ロックアイランドではかなり大きな島。桟橋には、数隻のボートが集まっていた。別のシュノーケルポイントへ行く組が他のボートへと分かれ、我々クラゲ=ユラユラ組は狭い山道を登り出した。なお、ジェリーフィッシュレイク許可証は、途中の受付の建物で没収されるが心配はいらない。帰りに案内人さんが集めて返してくれる。もう使うこともなかったけど。

一路ジェリーフィッシュレイクへ! マラカウル島の桟橋 左奥建物で許可証渡す 山道を登って 降りたら・・・

目の前に、想像していたよりもずっと巨大な湖面が広がった。
 
ジェリーフィッシュレイク

ジェリーフィッシュレイク(Jellyfish Lake):ロックアイランドを構成する(比較的大きな)島の一つマカラカル島にある塩水湖(マリンレイク)。マリンレイクは、狭いトンネルや石灰岩の亀裂によって海と繋がっているが、ある程度外海とは隔絶されている。ロックアイランドには数十のマリンレイクがあるが、ジェリーフィッシュレイクは、タコクラゲの一種ゴールデンジェリーフィッシュが数百万匹も回遊していることで知られている。このゴールデンジェリーフィッシュは、天敵のいないマリンレイクの環境の中で毒のある触手が退化した。最大水深30mで、底から15mは無酸素層で硫化水素が多く含まれ人体に有害であることから、スキューバダイビングは禁止されている。

 ガイドブックには「きつい」と書いてあったが、云うほどでもない山道を登って〜〜下って約10分くらい。しかし肝心要のここで、FinePix XP150の息の根があえなくも絶えてしまったのである。くそっ!去年買って、通算10日も使ってなかったのに。(後で調べたら、液晶が逝かれただけで、データの入っているSDカードが無事だったのが、不幸中の幸いだった)

 湖は、日本であったなら水準以上の美しい湖かもしれないが、ここパラオで超特級の海々を見てきたボクたちには、少しがっかりものだった。が、ジェリーフィッシュレイクの真骨頂は湖面にはない。
 グルグル回遊しているクラゲどもは、この時間、はた迷惑なことに湖の対岸あたりにユラユラしているというので、さっそく湖中へ入り、ボクたちはセッセと進んでいった。疲れるなぁ。水中は濁っていて先がさっぱり見えないし。
 やがて、オレンジ色の点々が見えてきて、突然、まわりがクラゲだらけになった。おおっ!これが夢にまで見た(ホントは見てないが)ジェリーフィッシュか。黄金色で太っててカワイイんだよね。毒触手は退化しているが、まったく無毒というわけではなく、キスするとピリリとするらしい。皆さんも機会があったらキスすると宜しい。タラコ唇になれるかも。

クラゲがいるのは向こう岸の方 海中はモスグリーン。透明度5mくらい ゴールデンジェリーフィッシュ ウヨウヨいる 下から
仲良くしよう クラゲも泳いでいる あっ。クラゲがこっち見た ぷかぷか さようならタコクラゲ

 ここでの所要時間は1時間ほどだったが、時間の経つのが本当に早い・・・クンクンもすっかりクラゲ好きになった。タコクラゲ、持ち帰って水槽で飼いたいものだ。カワイイやつらなのさ。

 

 しょっちゅう海外に出かける人は別だが。しかし、年に一回程度海外旅行に行けるかも知れない・・・という人にとって、一番大切なのは思い出だ。でも、思い出というものは数年経てば、「パラオなんて行ったことあったっけ?」「そもそもパラオってナニ?」「ココはドコ?ワタシはダレ?」と記憶がどんどん薄れてしまうから、記録として写真やビデオで残すしかない。

 今回持っていったデジカメは、まずは、FinePix F770EXR。現行からすると二世代前の機種で、映像素子が1/2と小さい割にやたら高画素と、今風のよろしくないデジカメなのだが、光学20倍ズームと旅行に便利なGPS機能付であり、長年なじんだ富士フィルム製ということで、最も信頼するデジカメ。
 次なるは当然(海主体だし)、防水デジカメだ。まずは、この旅行のため新たに購入したHX-WA30-W。これは主に彼女が持った。パナソニックの防水ムービーカメラで、今は無きサンヨーのXactiの後継と書けば、ああ〜と思われる方もいるだろう。所詮は防水耐衝撃なので、画質はあまり期待していなかったのだが、思いがけず、動画・静止画とも良いものだった。
 最後に予備として、FinePix XP150。F770EXRと同じくお気に入りの富士フィルム最後のGPS搭載機(その後はWi-Fi搭載にしやがった)、かつタフネス防水モデルで、静止画画質はパナ機よりいいに決まってると思って持参したが、実は、肝心の防水面に少々の不安要因あり。去年、プールで浸水とまでは言わないが、内部(バッテリ&SDカード)がヌレヌレグジュグジュだったんだよなァ。アヤチイ。・・・と思っていたら、上で書いたとおりやっぱり壊れた。

 てなワケで、安カメラ三台体制にて。他の人が書いたパラオのブログには溜息が出るような凄い写真が載せてあったりする。腕とカメラが追いついていないだけで、本物のパラオは、本ページの写真より遙かに美しいのさ。

 

 第四章(5) ウスビーチ

左下に中央アップ写真 歩いて上陸!だが、マジ深くね? 奥のボートがボクたちのさ
 12:10。無人島(まあ、ロックアイランドの島はあらかた無人ですがね)へ出発。そこでランチを食べるって予定だ。予定ではイノキ島(アントニオ猪木氏がパラオの酋長の一人から使用権をもらった島)でランチのはずだったが、この手のツアーでは天候や潮の具合やガイドさんの気分(?)で、適宜変わるのである。

 12:20。ほんの10分ほどで、ボートは天然が造り上げた小さな入り江に入った。ジュン氏はここを『ムーンビーチ』と発音したような気がしたが、帰国して調べたところ『ウスビーチ(又はグースビーチ)』だと思われる。
 このビーチは、浅瀬にあるため満潮時をはさんだ4時間しか上陸することが出来ないが、休憩所やトイレ(ジュン氏によれば、もっと大きくて開放感溢れるトイレも別にあるとのこと。ドコのコト?)は整備されている。日本政界で著名なイノキ島の方が話のタネとしてよさそうだが、『ウス島』のビーチは小さいけれど本当に美しいビーチだった。 

 腰くらいの深さの海を歩き、白い砂浜へ上陸。ボート持ち込みのお弁当を受け取って、ビーチのベンチでランチだ(語呂がいいでしょ?)。この弁当は、インパック直営『ジャイブカフェ&レストラン』のシェフが心を込めて調理したもの。メインはチキン。ガイドさんが別に持ってきてくれた焼きアジとシャコ貝の刺身?もありがたくいただいた。シャコ貝は非常なる珍味と聞いており、パラオで是非食べたいと念願していたものだったが、食べてみたら微妙に酸っぱかった。気温が高いため、食中毒を避けるために、酢を使っているのかな。

ビーチから正面。ウスビーチは入江にある こちら右方向。ジュゴン?が二頭いた 手頃なベンチを確保す 焼きアジとシャコ貝のサービス中 ジャイブ特製箱弁いただきマウス

ツインタワー トイレ(高床式便所) 内部 トーチカ?のような建物 コンクリートはボロボロだ
 ツアーの女性陣がジャバジャバと海につかり?に行っている間に、ボクは大急ぎで(本物の)トイレなるものを確認に行った。ウーム、これはなかなか貴重だ。男子の方(モチロン)を覗いてみたが、微妙だこりゃ。ジュン氏の云うでっかい方のトイレの方を利用した方が良さそうな気がした。

 その脇の方には、弾痕だらけでボロボロになったコンクリート製の建物の残骸があった。中をのぞいてみたら、水が貯まっていた。その時は日本軍のトーチカ跡かなと思ったが、後日分かったことは、元々 、今でも銀座にあるミキモト(御木本)真珠の養殖場跡らしい。養殖場は戦前にパラオで開業し、軍靴の音近づく開戦直前に撤収したものだが、日本軍が船を隠すのに適した天然の入り江と 、小さなコンクリートの桟橋が残るこの場所を利用したものと思われる。
 やはりここでも激しい戦闘があったようだ。

 ジュン氏がシュノーケリングのポイントに希望者を連れて行ってくれるというので、ビーチから右方向へ数百メートルほどバシャバシャ付いて行く。ボクは(サカナを探していたので)分からなかったのだが、そこには日本軍の軍用機の翼部分が沈んでいたそうだ。 本体部分は、島の密林に墜落したらしく、米軍に攻撃され、空中で爆発分解し、飛び散ったものと思われる。

シュノーケリングポイントへ出発 右奥の方向らしいゾ あー疲れる。みんな早え〜 戻って一休み もう出発の時間だ

 13:30、ウスビーチを後にし、マッシュルームがニョキニョキ生えた海を、ボートは疾走する。


 第四章(6) カヤッキング

 13:50。小さな桟橋に到着。カヤックが何艘か載せられた木の桟橋は海中にポツンと浮かぶように設置されていた。これからカヤッキンクの部なのである。このツアーは、結構忙しいような気がしてきた。その分お得ですけどね。もはや、ロックアイランドのどこにいるかさっぱり分からず、後で写真のGPS記録で調べるとしよう。

 我々のカヤック(だけ)は三人乗り。舳先の船頭は彼女、真ん中・中堅はクンクン、ボクは後尾エンジンと決まった。残りはカップルばかり(いや、正確には母娘二人の組と一人旅の粋な青年もいた。カメラは防水ケース入りのiPhoneを持っていて、逆に男のこだわりを感じた)なので二人乗りカヤックで、より力の強い女性陣が後尾を受け持つ。カヤックはクルクルと回りながら崖沿いにノタノタ進み始めた。水中には小魚が闊達に泳ぎ回り、こちらに向かってヒレを振る。崖からは、ウツボカズラがブラブラぶらさがり、可憐な白い花「ホワイトロックリリー」が咲き乱れる。ホワイトロックリリーは、この石灰岩の地を好んで咲く花はパラオの国花で、別名『パラオクチナシモドキ』というロマンのない名前。現地語では『ルー』と呼ばれ、ロックアイランドでしか咲かないそうだ。そして、ウツボカズラは日本では観葉植物として愛でられているが、土地の栄養分の少ない(つまり、昆虫を栄養とできる)ここでは様々な種類のウツボカズラが野生しているそうだ。

ついたどー 海中桟橋じゃ ではデッパツ 一艘が航行不能?であっち行っちゃった ジュン氏 カニを見つける
ホワイトロックリリー ウツボカズラだ ウォォォ!イケイケゴーゴー エンジンが疲れてきたと言ってる オーバーヒートだぜ。ヒィー

 カヤックで仰向けになってやっと通れるような狭いトンネルをくぐると、そこには小さなマリンレイクが広がっていた。
 ここにはやせて機敏なタコクラゲが、スイスイ泳いでいた。こいつ等が、ジェリーフィッシュレイクで進化(又は退化)を遂げたのである。フワフワしたクラゲをまた触ってみたかったが、いやらしいブツブツ模様と、長く恐ろしい刺胞をみて諦めざるを得なかった。

この穴をくぐるのだ そこは静かなマリンレイクだった あっ!何かいる。いっぱい ギャーッ!恐怖の猛毒クラゲだ! 桟橋へ戻る

 ボートに戻ると、いつの間にかジェリーフィッシュレイクで分かれた組が待っていた。彼女達はシュノーケリングポイントの『ファンタジー』に行って、でっかいナポレオンフィッシュを見てきたらしい。クヤチイ。


 15:20。最後のポイントに向かって出発。

 第二次世界大戦後、パラオはアメリカの信託統治領となった。アメリカの統治方針は、産業育成よりもとにかく援助浸けであり、アメリカは日本の影響力を消し去ろうとした。日本海軍岡田中将が「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよ」と訓辞した南洋神社は破壊され、公学校から二宮金次郎像を引きずり降ろした。日本色を払拭するという理由でコロール市街の道路まで掘り起こされた。スラリとしたパラオ人達は全員、ジャンクフードを食べまくって朝青龍のような身体になった。

 1994年、パラオ共和国はアメリカから独立。パラオの初めての国定教科書には、「日の丸の旗のもとに」というサブタイトルで一章を割いて日本の統治時代のことが書かれている。
「日本人は体罰を使って非常に厳格なしつけを行った」「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」「労働はきつく給料は安かった」「労働時間は午前6時から午後5時までで、1時間半の昼食休憩があり、週6日間働いた」「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」

 1995年のパラオ共和国独立一周年記念式典では、各国の使者や元首からの祝電が届く中、日本からは一本の祝電も送られなかった。台湾との国交を樹立したパラオに対し、時の村山首相が中国を少しでも刺激することのないようにと配慮したため・・と噂される。

 そして、今。パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアのメッセージを記して終わるとする。

 「日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。」

 第四章(7) ミルキーウェイ

 15:25。ボートでものの数分で最後のポイント『ミルキーウェイ』へ。煌めくパラオの海が、小さな入り江に入った瞬間に乳白色に変化した。

ミルキーウェイ

 ミルキーウェイは、珊瑚の微粒子がプランクトンに分解されて石灰質となり、潮の流れでこの入り江『ミルキーウェイ』に沈殿し、さらに太陽光で発酵したのが、美容によろしい純白の泥となったものだ。読者である奥様方。皆様が毎日顔に塗りたくっているプラセンタ化粧品と比べ、保湿効果は6倍、美白効果はなんと100倍らしいですぞ。となると、泥を持ち帰りたくなるのが人情というものだが、残念ながらパラオの法律で持ち出しは禁止されている。しかし皆様ご安心あれ。日本でもこの泥を買うことは可能らしい。100gたった2万円で。

 ちなみに、あの日本一美しいと云われるイッ○ー氏も、元々はデブのキモヲタだったのが、ここで七時間も泥を浴び続けた結果、あのように美しくなったということだ。どんだけ〜

 まずは準備として、荷物はすべて座席下のボックスへ仕舞う。カメラは防水のみ所持可。さらにラッシュガードは脱ぐ。なお、どうせ写真を撮っても泥パックで分からくなるからと、うっかり全部脱いじゃう人もいる(らしい)が、水着くらいは着ておいた方がいいだろう。
 ジュン氏が海に飛び込んで(水深2〜3m、視界ゼロだ)、バケツに泥を入れて持ってきてくれた。船内で泥パック開始である。ウウ・・・なんか気持ち悪いような気持ちいいような。少しして泥が乾いたら、舳先で写真を撮ってもらった(ここでヘンな顔とポーズをするべし)ら、ドボンと海に飛び込んで泥を落とす(泳げない人は、ライフジャケットを着用してハシゴで海に降りる)。水中は視界ゼロなのでさっぱり分からないが、ここにサカナはいるのだろうか?もしいるとしたら、さぞかし美しくなったサカナなのだろう。

 全員が海に入っている間、船内はホースの水で洗浄。なにせボート内は泥だらけでしたので。結構すごいんだ。

あの先の入り江へ... 海の色が乳白色に変わった ヌリヌリ開始〜 ギャー!白オバケが出たーっ ボートへ帰艦

 16時。ボートに戻ると、ジュン氏が、暖かい紅茶とフルーツクッキーを振る舞ってくれた。クッキーはインパック謹製の世にも珍しきパラオ原産お菓子。市価の一割引のお値段で、夕刻にホテルまで届けてくれるという。残念、昨夜、DFSで買っちまったよ。

 海の色が深い青に染まった。「外洋を走るので、少しばかり揺れます」とジュン氏。「フ〜ン」と大して信用していないボクたち。しかし、揺れる濡れる揺れる揺れる。怖いんですけど。マジ──ウワウワウワウヒィアバアバアバヒィィ・・・・メエルシュトレエムに翻弄される木の葉。それが本船だった。

 こんなに揺れても、キャプテンのピーター氏は直立して微動だにせず、前方をキッと睨んでいた。さすがはチーフ。タイタニック号の船長も、沈みゆくあの悲劇の時、乗客を不安にさせぬよう、同じように自らを律していたのかも知れぬ。ちなみに、疲れて眠くなったクンクンは、気がつくと気持ち良く寝てた。てっきり、さぞや怖がっているかと思ったのだが。
 
さらば〜♪ミルキィよ〜 ジャンジャカ・・・ ギャー!波が テンプクする〜 しかし彫像の如きピーター氏 し・・・島 いや。ぴ・・PPRだ! さよなら。高速クルーザー?

 16:45。思いがけず、(インパック社の桟橋ではなく)PPR桟橋に直接到着。助かった!

 第四章(8) PPR

 17:10。いい加減疲れてはいたが、またまたPPRのプールへ。パラオの一日は不思議に長いし、今日こそが最後の最後だし・・・ちょっとだけ。
 何故かお坊様の数が三人に増えており、あと、白人ファミリーが多くなっていた。火曜日あたりに欧米発の航空便があるのだろうか?

ナポレオンフィッシュのポーズ 正面建物がココナッツテラス PPR最後の時間が過ぎていく 白人ファミリーが多い 18時過ぎ。そろそろ部屋へ戻ろう

 19時。『ココナッツテラス』にて最後の晩餐。本日はジャーマンナイト。本日・火曜日はタカ(ガダルカナル・タカかな?と思ったら違った)のコンサートだった。ビッフェに飲物は、オレンジ(ミニッツメイド)4.5$、マンゴージュース4$、グワバジュース4$也。うっかり寝過ごすわけにはいかないので、今夜はアルコールを控えることにした。ニクだ〜と噛り付いたものの、何故かあんまり食べられなかった。ビッフェは合計1万円くらい(99.55$)かかったんですけど。 でも、タカ料金も含むから仕方ないですか。
 ちなみに明日の水曜日は、ビーチでホテル主催のカクテルパーティー(無料!飲み放題食い放題)があるのだが、4泊5日のデルタ航空を使う日本人が参加することは絶対的に不可能なのだ。クヤチイ。
 部屋へ戻る途中でチェックアウト(&支払)を済ませておく(鍵は出発まで渡さなくても良いので、大丈夫)。

花皿にリリーとウツボカズラを追加 ココナッツテラスへ なんかカメラも疲れたような色合 タカ コンサート
  

(番外編)PPR写真集

 みけねこパラオ隊の冒険では、写真を1200枚・動画を240枚撮った。こんくらいはいつものコトなのである。内、本旅行記では写真を300枚強使ったが、載せきれなかったPPRの写真を番外編として何枚か載せておこう。

プール&ビーチ ワイド端 左○印内を望遠(波平アイランドじゃ) ビーチへの近道・・・ ・・・を通ってビーチへ プールからフロント棟を望む
正面向かってフロント 反対よりフロント(真ん中は木彫サカナだ) フロント 土方氏とマリアンかなぁ フロント脇でいつも籠を作ってたおばあさん フロントから真っ直ぐ左DFS方面へ
DFS その隣のロゴブティックの前 夕日に燃ゆる我等がコテージ 正面 メセキュウウォーターホール 灰皿の砂で作られたPPRの模様

 終章 −さよならパラオ−

そろそろ時間だ。起きて! ロビーにて迎えを待つ 最後にプールの写真を撮る。静かだ

よし。出発だ!

 深夜1:30。ロビーに集まった帰国メンバーは20名ほど。皆眠そうな顔でムニャムニャ言っている。

 ロビーで待っていると、迎えのバスがノコノコやってきた。本当にさらばPPR!またあう日まで。そして、暗黒のニホンバシを渡ってアイライ空港へ。
 手荷物検査の手前のブースで環境税150$(出国税20$×3、環境税30$×3:現金のみなので注意。パラオではこのたぐいの税金が多いが、自然は有料ということなのだ)を払って、意外に思ったほど広々とした待合室へ。
 待合室には、喫茶室と小さなDFSがあった。DSFでは売っている商品も少なめだが、考えてみればパラオではどこでも概ねそうなのである。ちなみにメビウス(旧マイルドセブン)1カートンが260$だった。次に来る時(があれば)は、行きは一箱。帰りにカートン買いで帰国することにしよう。
 離陸まではまだ2時間近くあるが、このプラスチックの堅い椅子では寝がたいなぁ。最初はガラガラだった待合室も、次第に混んできた。ドルフィンズベイで腹這いになってイルカに触っていた人、ついさっきの昼間、インパックのボートで前の席に座っていた人。みんなががいた・・・こんなに日本人がパラオに来てたんでしたっけ?

 4:20。デルタ航空DL96便離陸。セブンティーアイランドを、ロックアイランドを、パラオを、空の上から見たかったが、行きも帰りも真っ暗な時間帯なんだ。
 5:30。機内食が配られる。(ガーリック入り)チャーハンとでかいソーセージ。味は悪くはない(たぶんウマイ)が、さすがにこの時間では苦し過ぎる...

待合室。最初はこう だったが、結構人が集まった 搭乗 機内食はニクじゃ。朝5時だが 内地だ!帰って来たんだ

 9時15分。予定より1時間ほど短縮して(またまた風向きがお宜しいそうで)成田空港に到着。
 朝だ・・・晴れていたが、しかし日本の空は薄くてドブ水のような空の色だった。パラオの空を見てきた我々にとっては。


パラオの軌跡 まとめ

 翌日。パラオ隊三名全員は、ひどい吐き気・下痢と格闘していた。朝から食欲がなく身体もだるかったので、最初は旅行疲れが出たのかなぁと思ったのだが、いやいや、なんのその。午後になってどんどんキター!結局、二日くらい殆ど食べられなかった。三人とも同じ症状なのでクイモノで間違いない。順番に遡るに、機内食・PPRでの夕食・ツアーのお弁当・・・果たして原因はなんだったんでしょうね?終わりよければ全て良し・・・なのだが、終わりがちと悪かった。

 ──というわけで、みけねこパラオ隊の冒険もこれにてお仕舞いです。何年かぶりに書いた旅行記、なんとか根性で完了させたものの、筆が錆び付いちゃって、なんとまあ文章の艶がないですこと 。
 クンクンは、パラオはグアムより面白い、わたしを冬休みに連れてってェ〜としきりに言っていたが・・・行けるものなら行きたいけど──ご勘弁。それではっ!

 

「みけねこパラオ隊 完」


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